新春記念講演会・・・ではなく,自虐教育史観のこと
こんにちは。石田智巳です。
昨日は,体育同志会大阪支部の「新春記念講演会」に呼ばれていって来ました。
このネーミングが大阪らしいというか,上方落語の会のような印象を受けます。
「新春シャンソンショー」ではありません。
昨日は,中教審の答申についての話をしました。
しかし,書いているうちに,今日のブログは全く違う話となってしまいました。
では,どうぞ。
12月21日に,次期学習指導要領の改訂に向けた中教審答申が出された。
幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号)
8月に審議のまとめが出ているので,だいたいの筋は見えていたのだが,こういう機会だからあらためて読んでみた。
でも,わかると思うけど,12月26日~28日は冬大会。
正月に実家に戻っていたので,実際に読み込めたのは3日~5日まで。
資料を金曜日に印刷して,土曜日に備えた。
まとめは,300頁を越えるものであったのに対して,答申は約100頁少ない240数頁。
総論が70頁で,後は階梯別(接続を含む),教科や科目などが170頁ほど。
ただし,別添資料と補足資料がある。
これらの資料は,図化してあって読みやすいのだが,そうなるとやはり大部になる。
講演となっていたが,ひとまず虚心にここに書かれていることを読んでみて,ポイントとなりそうなことを伝えることが僕の役割だと自分に言い聞かせた。
もちろん,それでは自分で読んでくださいといっているようでもあって,責任放棄だといわれるといけないので,裏読みも少しだけしておいた。
最初に話したのは,自虐教育史観について。
自虐史観という言い方がある。
これは,あるイデオロギーから見た違うイデオロギーのことを指す言葉。
第二次世界大戦の敗戦とそれに続くトラウマ体験(白井聡さんは「永続敗戦レジーム」と呼ぶ)をどうとらえるのかという話で,歴史修正主義的な立場からの見方。
これを書いていたときに思い出したのは,最近読んだいくつかの本である。
ここから脱線が始まる。
まずは,内田樹さんと白井聡さんの対談本である『日本戦後史論』(徳間書店,2015)と,鶴見俊輔さんと重松清さんの対談本『ぼくはこう生きている君はどうか』(潮出版,2010)と,エマニュエル・トッドさんの『グローバリズム以降』(朝日新書,2016)。
これらには,同じようなことが書かれていた。
読んだ順番は,「ぼくは」が最初で,「戦後史論」,「以降」と続く。
「ぼくは」で鶴見さんは,1905年以降日本の教育は悪くなったという。
1905年というのは,日露戦争が終わった年になるのだが,日露戦争とともに日本の「本当の」教育は終わったという。
この理路は,わかりやすいようなわかりにくいような。
どういうことかというと,ペリーの来航があって,歴史的には明治維新になる。
もちろん,すんなりいったわけではない。
で,今の近代国家を作ろうとした人たちは,もともと身分の高い人ではなく,坂本龍馬,西郷隆盛,木戸孝允など大衆の中から出てきて,国をどうしようという人たちで,それがエリートだった。
薩長も土佐もその共同体(ゲマインシャフト)から「きみ,ぼく」のような関係で国を作ろうとした。
ところが,日露戦争後,日中戦争を経て,第二次世界大戦にいくときには,この関係が機能していない。
だから,戦後民主主義が悪いというのではなく,もっと前から機能していないというわけ。
もちろん,1905年までに国を動かしていた人は,当然教育を受けてはいたとしても,明治維新は1868年だし,先に名前を挙げた人たちは近代学校教育制度を受けているわけではないよね。
だとすれば,1905年までの教育というよりかは,1872年までの教育という方が当たっているかもしれない。
公教育以前の教育だ。
ただし,これは司馬(遼太郎)史観とも重なるわけ。
で,「戦後史論」でも同じような主題が扱われている。
この本は,戦争が終わったときに日本はきちんと敗戦に向き合うことなく,うやむやなまま「対米追従で対米自立」を図ろうとしたことが書かれている。
そのなかには,大物政治家の名前も出てくるのだけど,それらの人は細かいことを気にせず,「俺に任しておけ」的なところがあるという。
田中角栄は,左翼の活動家が来ても,話を聞いて,就職先がなければ,世話までしたという。
もと民主党の仙石さんは,大物政治家として,森喜朗と山﨑拓をあげていたということも書いてあった。
「ふ~ん」。
そして,今手元に本がないから前後の文脈が全くわからないけど,司馬史観の問題というか,明治維新から日露戦争までの40年はよかったけど,次の敗戦までの40年がなかったことにされているということを指摘している。
これは,よくいわれることだけど。
それから,「以降」においても,やはり出てくる。
エリートとは,もともと国や共同体の公益を担う人という位置づけだったのだけど,今は国や共同体を担うという意識はなく,人々から離れていっていると。
そして,少し文脈は離れるけど,先進国で不平等や格差が拡大しているのは,多くの人が高等教育にアクセスできるような社会になったからだともいっている。
エリートが自己保身になるのは,選ばれた少数でありすべての国民の代表だからという意識が薄れてきたからだという。
トッドさんは,でも結局民主主義を動かしていくのは責任のあるエリートの仕事だといっている。
そして,日本の課題は,人口動態であり(少子高齢化),これを何とかすべきであるという。
面白いもので,今日(1月8日)の毎日新聞の社説も全く同じことが主題化されていた。トッドさんの意見も出ていた。
さらにトッドさんは,次のようにも言う。
「日本にとって安全保障問題は重大です。ただ,私はどちらかというとこう考えます。日本は,軍備や防衛,同盟への参加といった問題についての考察を,歴史問題から切り離すべきではないでしょうか。
つまり,日本は第二次世界大戦について考えることを少しやめ,江戸時代の数世紀にわたって平和であり続けた唯一の先進国だということ,日本の現実は平和だということを思い起こすべきではないでしょうか」(85-86頁)。
「坂の上の雲」よりも前の話が出てくる。
完全に暴走してしまった。
3つの本のことではなくて,自虐教育史観を書こうとしたのだった。
どういうことかというと,教育改革を行うためには,「今の教育は悪い」という認識を国民に持ってもらう必要があるということ。
そして,10年に一度改革をするならば,前の改革が終わったらすぐに次の教育改革に着手する必要があり,ということは,常に「今の教育は悪い」ことになる。
具体的には,2008年改訂の学習指導要領は,2011年に小学校で,2012年に中学校で,2013年に高校で完全実施された。
2012年12月には,次の指導要領のベースとなる「資質・能力論」が検討され,2013年に国立教育政策研究所で21世紀型能力だとか,スキルだとかが出された。
そして,2014年の11月に中教審への諮問が出されると,今の指導要領は「詰め込み」だという批判が新聞にのり,これからはアクティブ・ラーニングだと書かれていた。
現場をないがしろにしていると思うのだ。
それと同時に,OECDのキーコンピテンシーなどから日本の教育課題を持ってくるというのは,まさに自虐教育史観だと思ってしまうのだ。
僕は日本の教育制度というか,日本の教師たちは本当によく頑張っていると思っているから,この自虐教育史観に対して,教育の歴史修正主義なのだ。
紙幅に都合は全くないのですが,大阪で話をした最初の5分ぐらいの話を広げすぎてしまいました。
なんともはや,申し訳もございません。