体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

スポーツ権について

こんにちは。石田智巳です。

 

先日,長野の小山吉明さんからメールをいただきました。

京都支部ニュース(かもがわ)に,僕が学会で報告したことを載せたことがきっかけとなりました。

そして,小山さんは自身のバレーボールの実践記録(中学校分科会の通信用)を送ってくださいました。

 

そこで,問題意識が似ているということを言われました。

それは当たり前です。

僕は小山さんから学ぶことが多いから。

今日はそのことについて書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

写真は,小山さんの著作『体育で学校を変えたい』(創文企画,2016)

これを読むと,「こんな体育教師がいるんだ」と思うでしょうね。

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先月,和歌山で行われたスポーツ教育学会では,「スポーツ権を視野に入れた教科論における 教科内容と「観」の変革」というタイトルで報告した。

これは,二つの問題意識によっている。

 

一つは,最近,協同学習や,スポーツ教育モデル,責任学習など,体育学習の中味の中心であるスポーツの内容と関わらせない形で,学習して仲間作りを果たすような実践研究が報告されてきている。

体育同志会でも,1960年ぐらいには,ゲス・フーテストや責任学習のようなことを授業後にやって多角的に実践を評価しようとしていた。

しかし,これらは「訓育色が強い」という理由からやられなくなっていく。

この頃から力点はカリキュラムではなく,技術指導に向かう。

 

その後も,体育同志会のグループ学習論に学んで実践研究をやって,実証的なデータをとるという研究が行われた。

小林篤さんのお弟子さんが,出原さんの授業を見て態度スコアの変容をとらえる実証的な研究をした。

結果は,「うなぎ登り」によくなり,ただ「教師の指導」という項目だけが下がったという。

これは,小林さんの『体育の授業分析』(大修館,1983)に紹介されている。

 

その後も,筑波の岡出さんや早稲田の友添さんたちも90年代に,実証的な研究を残している。

しかし,彼らはその後海外の研究にも目配せをして,彼らのお弟子さんたちは全く体育同志会の実践に目配せをしなくなった。

そして,参照された実践は出原実践(というかグループ学習論)であるが,その後,体育同志会は理論的にも実践的にもかなり進んできている。

 

問題は,それが会内にとどまっているということだ。

だから,僕が体育同志会の実践は人間形成的な観点からこんなことをやっているんだということを報告した。

 

それと,もう一つは,スポーツ権をめぐるこの間の動きだ。

スポーツ基本法」(2011),「体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章」(2015)によって,スポーツ権がクローズアップされようとしているのだが,実際にはされていない。

僕が知らないだけなのかもしれないが,次の指導要領では,資質・能力論とアクティブ・ラーニングの視点が出てきているが,スポーツ権の話は寡聞にして知らない。

そこで,スポーツ分野の主体形成を目標に掲げる体育同志会の到達点をスポーツ権と絡めて報告しようと思ったのだ。

 

研究そのものをここに載せるのはなんとなく照れくさいのと,変にここに書いて論文化しにくくなるといけないので書かない。

実は僕が数ある体育同志会の実践で参照した一つが,小山さんのバレーボールの実践であった(系統指導とグループ学習の統一2  『たのスポ』小山実践を読む )。

いまだに僕の授業ではこれを取り上げるのだが,そして宮城の矢部,制野実践も取り上げるのだが,これらの実践にはスポーツが持つ(?)人間形成機能がうまいこと表現されていると思うのだ。

 

バレーボールは,もともとはレクリエーションだった。

それが,より高度化になったり,ローテーションを保ちながらも,リベロというレシーバーの役割をする人,ワンポイントブロッカーのような機能分担が入ってきている。

ネットは高くなり,背の高い人のスポーツとなっている。

 

もちろん,スポーツの発展を競技スポーツの発展に限定するのは間違っており,みんなが楽しめるようなスポーツの工夫という形での発展もある。

スポーツの歴史は,一部の階級のものからみんなのものへ,白人のものからみんなのものへ,男のものからみんなのものへ,健常者のものからみんなのものへ,という闘いの歴史であった。

 

いずれにしても,スポーツは競技志向,中でも勝利至上,仲間作り,健康,息抜き・気晴らし,僕のような個人的な記録の伸びを楽しむランニングのように多様な価値観がある。

やりたくないという選択肢だってある。

ただ,メディアと結びついて露出度の高い競技スポーツ=スポーツという装いとなっているのもまた事実であるが。

 

しかし,このことはあまり顧みられておらず,なんとなくバスケットボール,バレーボール,サッカーをやると,技術・戦術の学習にすっと入ろうとしてしまうのではないか。

このとき,多様な価値観の存在はなかったようにされる。

そして,「体育でやるスポーツとはこういうものだ」というヒドゥン・カリキュラムのように学ばれていく。

 

でも,現実に授業をやれば,もめ事は起こるし,ワンマンプレーや,一部の上手な子たちだけのプレー,観点を変えれば,ボールに触れないとか,たまにボールが来るとミスって攻められるということは起こる。

このときに,こういった問題をいかに訓育的・道徳的ではない方法で解決するのか。

これが絶対に問われるよね。

 

もちろん,訓育的・道徳的でもいいけど,それでは学級の中に閉じ込められて外に出ることはできず,社会で行われているスポーツの歴史的発展(系譜学的変化)には触れることができない。

だから,ここに運動文化の継承と発展の担い手が期待されていないことになる。

 

ということで,小山さんは,バレーボールの学習の難しさ,実際に起こった問題点を挙げて,その解決方法についても言及している。

そして,練習でやったことをゲームでやろうとしない,より具体的に言えば,苦手な子にボールを送らない「上手い子」に対して,人権侵害だという。

ここにスポーツ権が関わってくる。

この見方は僕はしていなかったけど,憲法26条の学習権とその侵害的な意味で,スポーツ権の侵害が出てくることになる。

ここにも自由権社会権があって,この社会権の前提には,子どもの権利条約でいうところの「意見表明権」がある。

 

体育同志会の実践では,意見表明権の保障が位置付くから,価値観のズレとか,違いが前面に出てきて,実践を通してそれらのズレを埋めたり,矛盾や不自由の止揚が目指される実践が少なくない。

 

もちろん,その方法は多様にあるけど,これをいかにスポーツの側のもつ教科内容と絡めるのかが実は課題なのだ。

そして,このことが90年代の教科内容研究を,さらに進化発展させることになると思う。

 

なので,今密かに次の中期研究計画を考えているところです。

週末の常任委員会に出す資料を作らねばならないのですが,1つはこれでいいですか?

 

 

 

 

 

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