体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

愛知で話したこと 体育とアクティブ・ラーニング?

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,9月11日の日曜日に体育同志会の愛知支部で話したことを書きます。

僕のなかでは,問題意識が一定のところに収まることがないので,あっちこっちへ跳んでいってしまっていたりします。

それが今回の話の中身にも表れていました。

 

なお,今日は娘の11回目の誕生日です。

おめでとう,さゆりちゃん。

 

では,どうぞ。

 

愛知支部で話をするときは,たいてい愛知青年会館になる。

ASK48だ。

愛知支部での集まりで次に利用するのは,次に体育とスポーツの図書館である。

これは足助(あすけ)である。

やはり,ASK48だ。

そして,その前日に結婚式を行った新婦の名前も明日香。

ASK48。

くだらない話はやめよう。

 

僕は出身が名古屋なので,地元に帰ると味噌煮込みうどんを食べることが悲願となる。

名古屋駅地下の山本屋は長蛇の列。

きしめん味噌煮込みという気分でもない。

何とかやっているお店を見つけて食べることができた。

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愛知青年会館には2時40分ぐらいについた。

僕の出番は3時から。

この日は大きく三つのことを話そうと思っていた。

 

一つは,中間研究集会でこの集会の趣旨として話したことであり,体育同志会の実践研究史と絡めて,「わかる」の位置づけの変遷についてである。

 

二つ目は,8月1日に中教審が次期学習指導要領の改訂に向けた審議のまとめを出したので,そのなかから次の指導要領の方向性についてである。

実は,ここに「アクティブ・ラーニング」が出てくるのだ。

 

そして,三つ目は,体育同志会の「わかる」研究のこれからの実践課題だ。

ここは人によって力点が変わってくるのだろうが,学びにおける他者の必要性,そして言葉の重要性を絡めて話すことにした。

 

最初の中間研究集会で話したことは,ここ(中間研究集会1日目 )に書いたのでそれを見てほしい。

なお,この集会では,玉腰さん,丸山さん(ともに愛知支部)に加えて加登本さん(滋賀支部)に登壇してもらったが,今回,加登本さんも来てくれたので,中間研の一日目のメンバーがそのまま登場したことになる。

 

さて,二つめの次期学習指導要領についてであるが,これはやはり目標-内容-方法を示すところに今回の特徴がある。

そして,学校におけるカリキュラムマネジメントが求められる。

これは,この間のPDCAサイクルだとか,NPM(ニュー・パブリック・マネジメント)とかを見ると,いろいろきな臭く思ったりするが,それはそれで。

で,方法が「アクティブ・ラーニング」である。

正確に言えば,「主体的・対話的で深い学び(「アクティブ・ラーンニング」)の視点からの学習過程の改善」である。

「の視点から」が大切。

 

ただどうしても,「一人学び→協同での学び」が定式化されそうな気がする。

そして,一人学びが基礎で,思考力・判断力・表現力と発展した学びが,協同での学びになる。

そうなると,一人学びでつまずく子どもは発展的な学びにいけないために,結局,習熟度別のような学びになるのだろう。

学びにも格差が生まれるというか,格差を生み出す学習論になるかもしれない。

つまずく子はパッシブな学び,つまずかない子はアクティブな学び。

 

さて,この「一人学び→協同での学び」という定式化でいいのか。

そもそも体育同志会は集団で学ぶこと,特に異質協同の学びという言い方をしてきたのだが,これはヒューマニズムだからなのか?学びの成立のためなのか?

体育同志会は実践の事実を持っているけど,それを理論化する仕事も必要。

その際に新たな理論を立てるのだけではなく,既存の理論をにらみつつ(演繹しつつ)も,実践の事実から(帰納的に)とらえる必要がある。

その既存の理論を,例えば加登本さんはエンゲストロームの活動理論(活動システム)で見ようとしている。

 

僕は言葉にこだわってきたので,ヴィゴツキーなのだ。

といっても,ヴィゴツキー研究者ではない。

ヴィゴツキー研究をやる人を見ていると,原理主義的な物言いをする人が多く感じてしまうが,それだけヴィゴツキーが魅力的だということなのだろう。

 

僕の話は,ヴィゴツキーの『思考と言語』(柴田義松訳,新読書社)をベースにしているが,これを読むのは大変だ。

だから,この本の四章,六章,七章を中心に読んで,後は別の人の本や,教育実践に適用した論文などを読んで,イメージをつくってきた。

 

体育同志会の異質協同の学びは,先もいったように,実践の事実の積み重ねによって作り上げられてきた。

それを認めつつも,ヴィゴツキーを読めば,体育同志会の課題が見えるのだ。

それはしかし,日本のこれからの体育の課題でもある。

それが,学びにおける他者の存在,「わかる」ことにおける言葉の役割,これがアクティブ・ラーニング(的な学び)を考える上で示唆的なのだ。

 

ただし,ヴィゴツキー以後のレオンチェフやエンゲストロームは,人間の学びをもっと広げてとらえる。

かつて,「文化的実践への参加」という言い方があったように,学ぶということは認知の話ではなく,協業や分業を伴う活動,あるいは参加だという認識を示している。

残念ながら,僕はそこまで追いついていない。

 

しかし,ヴィゴツキーの高次精神機能の発達や概念の発達については,後の研究者たちは,活動に焦点を当てるあまり,取り上げられていないような気がするのだ。

ヴィゴツキーの心理学は,意識を扱うからソヴィエト当局から観念論扱いされたということを聞いたことがある。

そのせいなのかな。

 

全然進みませんでした。

また時間をみつけて書きたいと思います。

 

 

 

 

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