体育同志会の冬大会(2015)狭間実践のまとめ
こんにちは。石田智巳です。
今日は何曜日なのでしょうか。
ええっと、火曜日ですね。
昨日,冬大会が終わりました。
全体のまとめをするには、まだまだ冷却期間が必要なのですが、とりあえず昨日の朝話した狭間実践の成果と課題について述べておきたいと思います。
では、どうぞ。
朝は7時に起きる。
そしてすぐに風呂に行って汗を少し出す。
それから部屋に戻って、本日のまとめの進め方の確認。
久保さんと僕は自分の参加した分散会のまとめをすればよい。
これ自体大変なことではあるが、神谷くんは両方のまとめから大会全体の成果と課題をださなければならない。
これは大変だ。
とはいえ、今回の大会は前回のまとめと今大会の3つの仮説をあらかじめ出しておいたため、それに沿ってまとめるという柱はあった。
そうはいっても夜に終わってまとめをするのは大変。
さて9時から冬大会3日目が始まった。
最初は久保さんによる山本実践のまとめ。
僕は次の自分の番を待つことになるので、山本実践のまとめを聞いてもあまり頭に入ってこない。
それでも聞いていて思うことがあったので、それは書くならば後で(書かないかもしれない)。
そして僕の番。
実は朝食事に行くと、ニュースの速報がおいてある。
ニュースには参加者の感想が載っているのだが、それがとても温かくてそれを読んでもらうだけでもよいと思った。
が、それでは「怠慢」という誹りを受けることになる。
そこで報告したのだが,昨日の朝の感想文分析から順番に話をした。
話は,ワードの画面をプロジェクターで映して,色をつけたり下線を引いて強調した部分を中心に行った。
黄色はグループの関わりに関する指摘,緑は感想の質に関わる指摘,水色は系統に関わる指摘,紫は認識の対象に対する指摘,下線は書かせ方に関する指摘であった。
圧倒的に黄色が多くなった。
「分析しろ」といったのだから,いろいろなことが出てくるのだが,それでも3年生の感想文をつかまえて,子どもたちの関わりが出てこないという指摘があまりに多いのでややおどろいた。
ただそれは,感想文の書かせ方(感想文用紙)に起因するのであれば,そこを改善すればすむ問題だ。
だが,果たしてそうだったのか。
狭間さん自身は,技術に対する認識とその変化について興味があったので,それを軸に実践をまとめていた。
そして,グループ学習をやって感想文を見る限り,一定の成果が出ていたと報告した。
本当にその通りで,子どもたちはよく書いている。
これは別の参照項がないので,狭間さんの子どもたちの感想文の質量を云々しにくいのだ。
だから,質を云々するために,質を取り出すための方法を狭間さんは提案したのだ。
「質のいい感想」というのは,「自分の身体をくぐり抜けて出てきた記述」という読み取りをしていたグループもあった。
午後に狭間さんが自分の読み取り方を報告したあとに,僕の方で若干の解説を入れた。
よい感想は,まず本時の課題が書かれていること、課題の解決方法が動作の言葉にされていること,それをやってみて自分の技能を通した言葉となっていることの順でよくなる。
これは僕のヴィゴツキー理解に基づいている。
知識はいつも自分(それぞれの人)にとっての知識なのだ。
だから,課題解決の言葉は教師の言葉であったとして,それは最初は子どもたちにとっては情報でしかない。
メルロ=ポンティ的に言えば,それぞれの人がもつ身体図式に入り込むわけで,そのようにして情報はそれぞれの人にとっての知識となる。
情報を、そのまま情報として感想文に記述してもおもしろくない。
もちろん,情報を受け取らずに授業を受けている子もいるだろう。
その場合は情報すら書けない。
だから,自分の技能(身体)をくぐり抜けた言葉がほしい。
しかし,よく考えてみれば,これは僕のヴィゴツキー理解の甘さというか,矮小化とも言える理解がこのような質規定をもたらしたともいえる。
ここまで書いてきて,頭が回転し始めた。
昨日はよく寝たしね。
つまり,授業でグループ学習をするのは,そこで自分の思考を深くするためではあるが,そのために授業後に振り返って感想文を書けばよいということではない。
グループ学習をするということは,うまい子も下手な子も,学力の高い子も低い子も,いろいろな子がいるのだから,それぞれの子どもが省察をおこなって書いたって,それは個別の学びでしかない。
ちょっと観念的なものいいになっているが,だからこそ,集団的な思考を働かせた結果として出てくる感想がさらに質的には高い感想のように思えてきた。
この場合,記述内容が感想文用紙に規定されるのではあるにせよ,授業の方法として集団的な思考が働くようにさらなる工夫が必要なのかもしれない。
狭間さんの場合,授業の最後にワークシートに書かせるのだが,それがこの授業の工夫であり,提案の一つであった。
それは,動作の分解図に吹き出しをつけてポイントを各班で書かせていくというものだ。
このことはすぐれた工夫だという受け止めであったが,書かせ方に質問を投げかけるグループもあった。
つまり,誰かが言ったことを書いているのか,それが集団思考をくぐり抜けたものになっているのか、という質問というか指摘だった。
これについては,改良の余地はあるのかもしれないが,この場で「こうすべきだ」というものでもない。
それは,今回の参加者が引き取って,それこそ実験的に実践をしてみるものだろう。
先ほど観念的なもの言いになっているといったが,僕がここでいろいろ言えば言うほど,観念的だという指摘を受けることになる。
だから,実践して違いを出してみてほしい。
さて,山本さんの実践では,5班のNさんに対する教師からのまなざしと,子どもたちからのまなざしの違いがあり,その違いがうまっていくというか,子どもたちのNさんに対するまなざしが変化していくところ,そこが実践記録の重要な物語の柱となっていた。
狭間さんの実践でも,いくつかの小さなドラマがあった(悔し泣きをした子,できていないことに出会った子など)が,そのドラマが記録に入ってこない。
書かれないということは,なかったこととして処理されたともいえる。
やや厳しい言い方をしているかもしれないが,教え子の成長のためと思ってほしい。
体育同志会の人たちが(それは全生研の記録でも,佐々木賢太郎さんの記録でも)このような学びのリアルを求めるのは,それがグループ学習の内実を語ることになるからだ。
制野さんや黒川さんが,「実践が見えてこない」といったのはそのことだろう。
そして,それは感想文の記述にもつながっているのかもしれない。
感情が学習の原動力にもなるし,学習を妨げることもある。
だから,漆山さんが感情をベースに学習を進めると言われたのもよくわかる。
それは全てつながっている。
やっぱり,体育同志会のメンバーの分析はするどい。
最後はまったく狭間実践のまとめの報告になっていませんが,そんなことを勉強した僕の学びの事実と感想です。