『体育科教育』1月号64巻1号を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は『体育科教育』2016年1月号を読んで思ったことを書きます。
前にも書きましたが,この号の特集は「生涯スポーツにつなぐ持久走・長距離走」です。
ランニングブームに対応しているわけです。
では,どうぞ。
『たのしい体育・スポーツ』12月号もまたランニングブームに対応するような企画だった。
これは,『体育科教育』の巻頭エッセイとその右側の広告のページ。
『たのスポ』は「ランニングブームと体育実践」である。
そして,巻頭エッセイは,『月刊ランナーズ』である。
神谷くんの『運動部活動の教育学入門』(大修館書店)もある。
神谷くんの本は,また取り上げることにしたい。
さて,ざっと目を通してみると,学校で行われる持久走や長距離走の授業は,面白くなくやらされる,あるいは罰として「グラウンド10周」というものであって,これでは生涯スポーツにつながらない。
そこで,生涯ランニングにつなぐための考え方が提案されたり,実践が紹介される。
パターンは,『たのスポ』と『体育科教育』でほとんど同じ。
現状では,よほどひどい授業か,罰としてのランニングが行われているということなのだろう。
前にも書いたが,児童・生徒が嫌がる種目(?)だからこそ,授業では多様な工夫がなされているはずなのだ。
しかし,問題はそれらが参照されることなく,とりわけ中高の現場では,教師がストップウォッチをもって,子どもを管理するような授業が行われているということなのだろう。
それはそれで問題なのだが,授業はそういうものなのかもしれない。
2割ぐらいのすぐれた教師の仕事が,スタンダードになることはあり得ない。
せめて,実践カタログがあって,それをいつでも参照できるようになっているといいのだが。
佐藤学さんがリー・ショーマンの仕事を紹介して,アメリカでは実践記録集があるといっていたが,ハウ・ツーではなく,実践記録があれば問題意識と教材,方法,結果,反省点や課題などが書かれているので,よいと思うのだ。
カール・ポパーの言い方を借りるならば,何かをやろうとする時には,「先人の肩の上に立つ」ことが,最初の仕事になる。
研究でいえば,先行研究を検討して,最先端に自分の身をおく。
そこから,自分のやりたいことを始める。
理想を言っても仕方がないので,記事に戻ろう。
いくつか面白い実践があったのだが,ひねくれ者の僕が一番面白いと思ったのは,最後の記事である。
これは,特集ではなくエッセイである。
巻末エッセイというものだろうか。
今月号は,仲島正教さんの「朝のジョギング」だ。
「正しく教える」という名前の方で,この方の書かれるものはいつも面白く読む。
読んでもらうのがいいのだが,簡単に要約すると以下の通り。
ある小学校に赴任したら,その学校では朝のジョギングがあって,登校した児童は,運動場を5周走ることになっている。
これは,走ることは強制されているが,走り方やスピードなど細かいことは言われない。
しゃべりながら走ってもよい。
かつて,「ニコニコペース」で走るのがよいということを聞いたが,それがおしゃべりをしながら走れるペースだという。
もちろん,速く走る子どももいるだろう。
これが授業だと,教師がうるさいことを言うのだろうが,そんなことはない。
仲島先生は,この取り組みに最初は賛成してはいなかった。
しかし,仲島先生も毎日走った半年後,たまたまシティーマラソン5キロの部に誘われて出場することになる。
そして,走ることの気持ちよさを感じる。
春には,10キロ走にも出場したという。
そして,多くの人がいい顔で走る姿を見て次のように言う。
「学校のマラソン大会は嫌だったけど,市民マラソンは好きなのでしょう。なんだか学校の教師としては複雑な心境になります。生涯スポーツと言いますが,学校の体育は何だったんだと。」(80ページ)。
そして,仲島先生は転勤しても毎日走ったら,子どもたちも走るようになった。
そのときの教え子が大学で駅伝選手として活躍し,マラソンを走るようになったという。
こうして,まとめに入るのだが,「普段着」「ゆっくり」「おしゃべり」「強制なし」こそが長く続く秘訣だろうという。
これが授業だったら,こうもいかないのだろう。
教える中味は何ですか?
子どもたちは何を学習したのですか?等が問われるから。
問うてはいけないと言っているのではない。
授業は,休み時間のドッヂボールではないのだから。
だから,教えて学ぶ内容がないといけない。
しかし,それだけで生涯スポーツになるかどうかは話は別だ。
だから,走ることが強制されずに,ゆっくりで,ファッションを楽しむ(普段着ではなく)などであれば,大人になってからでも始められるのだ。
以前も書いたが,ランニングを始めて続けられるようになった時に,「学校の体育授業では嫌々走っていた,無理矢理走らされていやだった」というナラティヴがネガティヴであるほど,今イケてる自分になれるのだ。
学校では10キロとか20キロとか走れないし。
落差は大きい方が,より今の自分を輝かすことができる。
だから,すぐれた授業を受けたからランニングを始めたのではなく,どこかで「授業でやらされた」という物語が,生涯スポーツのためには必要なのだ。
つまり,いい授業を受けていたにもかかわらず,物語として保存される時には,やらされた経験に無意識下で記憶がすり替わることになる。
こんなまとめにしたかったわけではないのですが,結果的にこんなまとめになりました。
また書きますが,特集のなかに「10分間のジョギング活動が子どもにもたらす大きな効用」があります。
これと絡めたかったのですが,うまくいきませんでした。
で,また今後。