体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 11月号№296 殿垣実践を読む2

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,一昨日アップした殿垣哲也さんの実践記録の,後半部分を読みます。

この実践記録でも,殿垣さんの最初のナラティヴが書き換えられ,さらに書き換えられています。

最初のナラティヴの書き換えとは,「授業おもろない」と生徒から言われて,これまでのやり方が通用しなかった,生徒の実態からかけ離れていたという反省のナラティヴでした。

 

この反省のナラティヴは,どうポジティヴに書き換えられたのでしょうか。

これが主題になります。

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では,どうぞ。

 

殿垣さんは,それまで体育同志会の高校分科会で積み上げてきたバレーボールの指導の系統をもって,高校生たちに挑もうとした。

しかし,みんなが活躍できるバレーを用意していたのだろうが,そのもくろみは「授業おもろない」という声に崩れてしまった。

こういうとき,多くの生徒たちはそれなりにやるんだろうけど,ほんの一部の生徒の直截的な行動によって,自分のアイデンティティが崩壊するような経験となることがあるが,まさにそれだと思う。

 

それでも,「うっさい。やれ!」とはいわずに,真摯に受け止め、話し合いをして,「オレが強いサーブを打つ」「ややこしいこと(サインプレー)いわずに,バシバシやらしてくれ」という意見を認める方向で合意を得た。

 

そんな殿垣さんは,その子どもたちのせいにするというよりも,「高校の体育にあまり期待していない生徒たち」と分析する。

つまり,高校(中学校でもとりわけ3年生はそうかもしれない)の体育は,自由放任にやらせておくだけで,何かを教えようとか,その先に能力観や学習観やスポーツ観を変革しようとかいう考えは(あんまり)ない,ということを知っているからの分析だと思う。

これは,進学校でも,そうでない学校でも同じだと思う。

体育の先生は,生徒指導と部活指導が中心であることの表れでもある。

 

そんななかで,殿垣さんは,過去に久保健さんの実技講習会で衝撃を受けた「あてっこペース走」に取り組むことにする。

どれぐらい衝撃を受けたかというと,肉離れするぐらいだそうだ。

これは,すごい。

最近肉離れした僕は,GOマーク鬼ごっこのトップスピードではないスピード,それこそ8割か9割のペースで肉離れをした。

 

なぜハマったのか。

それを殿垣さんは2つの理由を挙げる。

1つは,走りの内観である。

8割,9割と簡単に言うが,単純に力を9割り入れて走るというわけにはいかない。

そこで,あれこれ考えながら走る,そしてタイムのフィードバックを得て,また違うところを意識して走るようになるということだ。

 

もう一つが概念砕きであるという。

これは,競争のレギュレーションを変えるということでもある。

普通は,トップスピードの出来高競争をする。

それが競技の世界だ。

しかし,これを競争するときに,うまさの競い合いとなるのだ。

 

具体的には,10秒0で50mを走れば,その8割はタイムでは1.2倍して,12秒となる。

9割は1.1倍して,11秒となる(かなり遅いけど)。

それを目標に走り,誤差が±0.3秒なら1点,±0.2秒なら2点,±0.1秒なら3点,ピタリは4点として,グループの合計点を競わせる。

そうすれば,全力走のタイムの速い遅いは関係なく,みんなが同じ土俵上で競争をすることができる。

 

実践の細かい中味については是非読んでほしいと思う。

僕が関心を持つのは,殿垣さんのこの高校生たちに対する体育指導のナラティヴがどう変化したのかである。

あるいは,子どもたちの体育授業に対して内面化されているナラティヴをどう捉え直したのかである。

 

結果的にはあてっこペース走は「とても手ごたえのあるものになった」という。

当てっこペース走は,速い者と遅い者を序列化するのではなく,両者が同じ土俵で共通の課題や目標によって活動できるところにある。

いいね。

同じ土俵(すもう)で,短距離走(陸上)をやるのだ。

 

運動能力の高い子が中心になりがちな体育授業が変わる可能性があるということだ。

さらに,みんなが速くなるという経験が,「生徒たちをつないでいったように思う」ということでもある。

「ほぼ全員がベストタイムを更新し,しかも風のようにスーッと走れるようになったのである」。

「美しい姿勢,前を見据えた視線,リズミカルで安定した足運び,誰が見ても気持ちよく走る姿は,学習の成果として再現された」。

 

「高校生だからこそ,わかること,できることを渇望しているのではないだろうか。

その要求にこたえてこそ,体育の学びの世界が広がっていくのだと思う」。

こう結ばれる。

 

「風のように」というのは,大阪の山本敦子さんの小学校2年生の子どもたちも使う。

いい言葉だと思う。

 

これで実践記録は終わってしまった。

あれっ?

高校生が「わかる,できる」ことを望んでいるのはわかる。

しかし,バレーボールも「わかる,できる」で成り立っているのではないか?

そうではない部分,つまり当てっこペース走にはあって,バレーボールにはない部分は何なのかの分析が結論のところにほしい。

紙幅の都合かな。

 

恐らくは,競争のレギュレーションを変えたところにあるのだろう。

とはいえ,バレーボールだと,それをするだけでは難しいのだろう。

つまり,能力差が関係ない状況をつくれるかどうかだから。

だとすれば,どのような可能性があるのだろうか。

 

これについては僕が軽々にここに書くことではないと思うので,書きません。

実践の事実にまちたいところです。

どなたかそれを僕に教えてください。

 

 

 

 

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