末吉小学校・菊池淨先生のお話6
こんにちは。石田智巳です。
今日は元末吉小学校の菊池淨先生から送られてきたお話です。
遠泳の話が3つなのですが,ひとつだけ載せてみます。
写真は,娘が同級生の住むお隣さんに芋掘りに連れて行ってもらい,芋以外にもいろいろいただいたので撮りました。
それぞれ複数あったのですが,一つずつです。
ありがとうございました。
では,どうぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
題 遠泳その1ー深い海を泳ぐには勉強することがいっぱい
水泳の教え方が上手になって皆が泳げるようになると、後は何を教えたらいいかわからなくなりました。
「遠泳をやろうよ。」と根本先生がいいました。
八丈島では海は暮らしの一部です。
みんな獲物を探します。
そのときはなるべくのんびりしていて力の無駄づかいしないほうがいいのです。
それにオリンピックに出てくる泳ぎ方では,獲物はとれません。
根本先生は早く泳ぐのもいいけれど、となりの友達を信じて力や心を合わせていく遠泳がいいと言います。
先生達が千葉や長崎などで開かれる研究会に行って勉強しました。
そして、五・六年生が遠泳をすることになりました。
三根の垂土から底土の海岸まで約二キロメートルです。
船や浮輪を用意したり一人一人の泳ぐ力をみて、並び順をきめたり、心配な子のそばで元気づける先生を選んだり,疲れた子を支えて泳ぐ練習をしたりと、先生の準備が進みます。
五・六年生は,深い海に出て泳ぐ練習を始めます。
きちんと並んで泳ぐこと、目標の定め方、向きの変え方,休み方など底の見えない深い海を泳ぐには,勉強することが一杯あるのでした。
深い海の底は暗くて何か出てきそうで,みんな心細くなるのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
遠泳をやったことのある人はどのぐらいいるのだろうか。
僕は大学の2年生のときにはじめて経験をした。
助手のときには,2回ほど船の上で監視した。
さらに,前の大学のときにも毎年遠泳をやって,その時は1度だけ一緒に泳いだ。
だから,それなりに経験はしている。
でも,子どもで遠泳を経験した人は多くはないだろう。
特に今は。
プールで泳いでいても,事故で子どもが亡くなるという痛ましい事故が起こるのに,小学生を海で泳がせるのは,危険率が跳ね上がるし,費用対効果というか,責任対効果というものを考えると,なかなかやれないだろう。
その意味では,原発の稼働はこれらを意図的に目をつぶって,目先の利益を追求する。
目先がかなり近い。
さて,僕は小学校2年生から4年生までの約2年間,スイミングクラブに通った。
だからそれなりに速く泳げた。
その後はほとんど泳がなかったけど,6年生のときには50m背泳ぎで緑区で一番になった。
だから,大学の水泳実習でも水泳部に次いで速かった。
これは自慢になる。
プールでの水泳実習は,泳力試験があったが,それが終わると夏休みに海へ実習に行く。
僕はそのとき,用具の係だったから,毎日荷物を和船に乗せて,艪を漕いでいった。
これはなかなか難しくて,最初はその場をゆらゆらしているばかりだった。
臨海実習では,もちろん隊列を組んで泳いだりもするが,潜ってサザエを捕る経験もした。
が,僕は1つもとれなかった。
「オリンピックに出てくる泳ぎ方では,獲物はとれません」。
その通りだった。
島根県の浜田出身の同級生が,どんどん採ってくる。
それを民宿の親父さんがゆでてくれるのだ。
彼は,海の地形を見れば,いそうな場所がわかるし,そういう場所へ下から接近する。
今では,僕もそういう場所はわかるし,潜り方もわかるようになった。
南の島にいた頃には,サザエを捕ったり,タコも捕ったりした。
その島根の同級生は,僕が院生時代にときどき遊びに来たりしてよく飲んだ。
また,こっちがいったりしたときには,気持ちよく飲ませてくれた。
彼の家のカレーは,サザエが入っているという。
彼に出会ったおかげで,海の楽しみが広がったと思う。
南の海では,あまり夢中になって獲物を探していたので,相当無理をしたこともあった。
みんなでマンタを見にいったときに,なぜかそのときに,耳に穴が開いたようで,潜れなくなった。
みんながダイビングをしている間,ずっと水上でぶらぶらしていた。
何だかよくわからないけど,僕の話も昔話になってきたので,これでおしまいにします。