体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

末吉小学校の話(菊池先生のメールより)

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,八丈島にあった末吉小学校の話です。

奇跡の学校というのは大げさかもしれませんが,あるときに偶然と必然とが重なって,ユニークな教師たちが集まっておもしろい取り組みをした学校です。

今日は,その中の中心自分物の一人である,菊池淨先生が水泳の話をメールで送ってきてくださったので,そのまま絵とともに載せたいと思います。

菊池先生のブログ(サンゴシトウ)にも載っていますが,あえてここにも掲載します。

では,どうぞ。

 

平成4年ごろ、毎日小学生新聞日曜版に子どものことを書いていました。

水泳の記事があって、いかにも末吉小らしい記事なのでお送りします。
絵も私が書きました。

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私が末吉小学校にいる時、水泳が盛んでした。

先生達が何年も水泳の教え方を勉強しましたので、だれでも教えることが出来ました。

一年生で25メートル泳げましたし、四年生になると,クロール,バタフライ、平泳ぎ、背泳ぎができるようになるのでした。

五・六年生になると、400メートルのメドレーリレーをしたり、海へ行って貝をトリに潜ったり,天草をとったりしました。

どの先生も天気の良い日に教えたいと思っていました。

一年生のプールの時間でも六年生が泳がせてねとやってきました。

やがてぞろぞろと他の学年も来て、いつの間にか学校全部が泳いでいました。

縦に泳いだり横に泳いだり外から見るとめちゃくちゃに見えました

そのうち音楽の先生がやってきて、「私にも教えさせて」「うん、この子の呼吸の具合みて」こうして、だれがだれを教えているのか分からなくなるのでした。

その上,先生達は「淨さん、それ違うんじゃないか」などと教え方の世話をやきました。

だれでも泳げると信じているのでした。

通り掛かりのおじさんが、よくやるねと、採れたてのスイカをおいていきました。

末吉小学校では十年もの間、泳げない子は一人もいませんでした。

 

こういう話は本当にいいなあと思う。

個性化重視になって,教えることはいけないことだという風潮が強くなった。

指導ではなく,支援という。

それで教師の指導力量は低下したのではないか。

その反動で,指導の中身が増えた。

 

教育を語る言説は多くが極端になる。

教えることを重視すると,詰め込みになる。

子どもの学ぶことを重視すると,放任になる。

子どもの学びを創るために,何をどう教えるのかという問いの立て方になかなかならない。

 

教材の深い理解,子どもの深い理解があるから,子どもの学びを創るということが可能になる。

僕はまずは教材の理解かなと思う。

大学の授業で子ども理解はできないというか,やっても学生には落ちていかないだろうから。

だから,教材作りの方法と,グループ学習の方法を具体的に示すしかないと思ってやっている。

 

でもそれでいいのかどうかはいつも不安を抱えているんですよ。

 

 

 

 

 

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