『たのしい体育・スポーツ』 10月号№295
こんにちは。石田智巳です。
『たのしい体育・スポーツ』10月号が届きました。
きっちり10月1日に届いて,さっそく牧野さんの巻頭言を読みました。
そして,丸山さんの論考も読みました。
今日は,指導案の話になりそうですね。
では,どうぞ。
巻頭言にあたる「かぜ」は,「魅力ある学習指導案を」となっている。
そして,冒頭で「学習指導案が魅力ないものになってしまったと感じる」とある。
れは,評価ノリ準と評価モト準が出てきたあたりから金太郎飴のようになったという。
確かにそうだ。
ばかげたといっては失礼になるが,評価項目(規準)を指導案に書いておいて,あわせて基準も書いておく。
指導と評価の一体化というのはわからなくもないが,もし本気でそこに書かれていること(自分で書いたこと)をやろうとすれば,当然,授業は評価の時間になる。
「関心・意欲・態度」と「(運動)技能」,「思考・判断」なんかの項目があって,なかには「爪を切る」とかもある。
そして,授業中にいちいちチェックすることになる。
本当にできるの?
というか,これは指導要領のあんまりよくないところだと思うけど,目標を構造化していないからそうなるんだよね。
「態度が悪い」というのはわかるような気もするけど,「一生懸命やろうとしている」とか書いておいて,やろうとしていなければ「声を掛ける」とか,「うながす」とか,そんなことは当たり前でいちいち指導案に書くことではない。
構造化するということは,「楽しんでやる」「頑張ってやる」ということではなくて,「これをやったら絶対に盛り上がるよね」という子どもたちが取り組む内容を示しておいて,実際にやってみてどうだったかが問うことだ。
つまり,評価活動は子ども(たち)を評価するんだけど,それは自分の指導内容や方法の評価のはず。
その観点がなく,教師が子どもを指導そして評価するという観点しかない。
面白ければ,格闘するに足る内容であれば,みんなやる。
それが前提にないから,「意欲や態度」と「技能」なんかを構造化しないで,そのまま両方並べて別々に評価することになる。
さらに牧野さんは,指導案がつまらなくなったのは,コピペの文化が進んで画一化が進んだという。
そして,それによって授業の画一化も進んだという。
僕も学生に指導案を書かせるんだけど,あんまり面白くない指導案がネット上でトップにヒットするので,同じような面白くない指導案を読ませられることになる。
あるところには,電話帳のようなモデル(スタンダード)が存在し,単元全部の指導案があるという。
子どもの存在は全く無視だね。
さらに牧野さんは,上に書いた評価のことも指摘する。
そして,体育同志会の研究が,会員の書く指導案に反映されるべきだという。
その通りだと思う。
何年か前の学会で,ある人が体育同志会の実践を例に引いて,実践の良さを語ろうとしていた。
しかし,実践の良さを具体的な実践で語ろうとしても,研究としては難しい。
だから,そのとき,つい「その実践を抽象的な目標構造に描いてみると,他の(たとえばオランダのクルムや,高橋健夫さんの)目標構造とどう違うのかを示した方がいいんじゃないの?」というようなことを述べた。
おそらく,「3ともモデル」で説明することになるのだろうが。
それが,丸山さんの原稿に書かれていることでもある。
これぐらい緩やかにしておかないと,今度は,体育同志会の指導案の画一化,硬直化が起こる。
僕は学生に指導案を書かせるときには,「自分が子どもに教えるときに」という角度から書かせる。
それが書けるようになることが目的だから。
いつもいうけど,「3人対3人で練習をする」というのは指導案に書くことではなく,その形式でどんな内容を教えようとするのかが明確である必要がある。
それが学生には難しいのだ。
だから,それを言葉にさせてみる。
でも,書けるようになったら,そんな授業をしてはいけないのだ。
矛盾しているね。
要するに,「子どもたちが学ぶ」という観点から構成し直さなければならないのだ。
体育同志会では,グループ学習の組織であろう。
でも,教える中味とその肝が書けなければ,内容もなく,「考えてみよう」「みんな違ってみんないい」という焦点の絞れない授業になるのだ。
最後にするが,実は授業が硬直して画一化したのは,評価の話の前,1958年の学習指導要領が実施される1960年代の初頭からのこと。
文部教研だとか,研究指定校制度が出てきて,自由な発想の実践はなくなった。
民間の側も,教科に力を入れるようになるから,どことなく似てくる。
これは,その前と後の実践記録を読めばわかるのだ。
歴史の話はやめておきます。
今日はこれぐらいで。