『たのしい体育・スポーツ』2015年10月号が届きましたが,9月号の話。
こんにちは。石田智巳です。
10月1日に『たのスポ』が届きました。
実は,9月号は当然届いていましたが,僕がブログを書かなかったので,9月号のことは書いていません。
僕は9月号に原稿を執筆しているにもかかわらず,です。
ということで,今日は9月号の原稿について書いてみたいと思います。
では,どうぞ。
9月号は僕が論考を書いている。
与えられたお題は,「体育における言語活動の課題とは」である。
『体育科教育』にも書いたことがあるし,広島大学附属小学校の『学校教育』にも書いたことがある。
これらは,今の学習指導要領がPISAの影響(と教育基本法)を受けて,言語活動の充実を謳ったから,体育と言語活動をどう考えるのかという観点で書いた。
それから,数年がたち,今回はソシュール言語学をかじったので,そのことを中心に書いた。
佐藤学さんが,どこかで「授業とは徹頭徹尾,言語活動だ」というようなことを書いていたが,本当にそうだと思う。
体育は運動を中心とする教科だから,言語活動はどうだこうだという意見もあるが,それは短見だ。
『たのスポ』10月号は,指導案の特集だが,指導案も言語で書かれる。
書けない場合は,絵や図で示すことになるが,基本的には言葉で表現する。
『体育科教育』で連載している「実践記録」もまた言葉でなされる。
語れないことや書けないことはできないのだ。
もちろん,技能を全て言葉にすることは不可能に近い。
しかし,言葉にできるところはするのだ。
『AさせたければBと言え』だってそうだし,小林篤さんや阪田尚彦さんの仕事も,それが斉藤喜博さんの仕事を下敷きにしているからか,言葉の重要性を指摘していた。
彼らはまた,子どもの感想文の読み取りを行おうとした。
で,僕が書こうとしたのは,ソシュール言語学では,「世界に言語で切れ目を入れる」というような言い方をするのだが,運動においてもそれが大切だということである。
手持ちの言葉では,運動が分節できないのであれば,新しい言葉を作っていくしかないということだ。
山内基広さんの仕事はまさにそうだった。
この論考の最後には,ナラティヴ・アプローチとしての実践として,これまでにあまり言われていない実践の読み方をした。
それは,矢部英寿さんのバレーボールの実践である。
そういう角度からの言語活動も見直されるといいと思う。
実は,この実践のことは,『体育科教育』の連載にも取り上げることにしている。
去年の冬大会の石井さんの実践もナラティヴ・アプローチと読むこともできる。
これについても,連載で取り上げるつもりである。
話は変わるが,10月1日に体育同志会の大阪支部ニュース9月号が届いた。
ハチ日記はまたまた面白い話だった。
自閉系のAちゃんの話で,Aちゃんは「よく見て、よく見て」と独り言をいうという。
それは,ハチさんの読み取りでは,Aちゃんが困っている時に,親か教師かに「よく見て,よく見て」といわれていたのだろうというものだ。
そして,次のように言う。
「子どもの困り観に共有することもできず課題を押しつけ続けた過去の指導者の取り組みが目に浮かぶ」。
そして,対案として,「手伝ってくださいって言ってごらん」と声をかけるそうだ。
困ったから,よく見て考えろではなく,困ったなら「困った,手伝ってほしい」といえば助けてもらえるということを教えるということだ。
そして,Aちゃんは,「どのような時にどのようなことばを発すれば状況が改善されるか,いろいろ考えるチャレンジャーに変貌したのである」で終わる。
いいね。こういうの。
しかも,「以下続く」とも書かれている。
来月号が楽しみだ。
最後に,僕の原稿はめずらしく「わかりやすかった」とお褒めのことばをいただいた。
気になった点をあげておく。
それは,10頁の最後に書かれていることだ。
サザンの「胸騒ぎ,残し,月」というのは,「勝手にシンドバット」の最後の歌詞が,「胸騒ぎの腰つき」なのだが,子ども(僕)の聞き取りでは,「残し,月」だった。
マチャアキの「さらば恋人」の最初の歌詞が,「さよなら,東海,たてがみ」と聞こえるというものだ。
これは,「さよならと書いた手紙」のことを,「東海,たてがみ」と思っていた人がいるという話を聞いて書いた。
いや~,ことばって本当に大切ですね(水野晴郎風に)。
さいなら,さいなら, さいなら(淀川長治風に)。