昔話「末吉小学校」を読む5
こんにちは。石田智巳です。
今日もまた,菊池淨先生の書かれた文章を読みます。
「子どもはどのようにわかるのか」を,理論的なモデルをもとに,演繹的に確かめることが行われていました。
では,どうぞ。
今日もまた東京。
この文章を読んでいて,気づいたことというか,わかったが故にわからなくなってきたことがある。
それは,子どもの理解ということが研究対象となっていったのは,この八丈島での研究が体育同志会の中央にそうさせたのか。
それとも体育同志会だけではなく広く発達研究が行われるのなかで,八丈島では独自の方法でやろうとしたのかである。
どっちでもいいといえばいいのだが,これはすごく重要なことのような気がしている。
というのも,体育同志会ではそれまでも実践記録が出されたことはあったが,この頃は「授業記録」という言い方がなされていて、それをもとにした授業研究が行われていたからだ。
体育叢書にも,『体育の授業記録』(1975)という本があり,ベースボールマガジン社から出ている。
体育同志会の授業記録の特徴は,やはりデータを大切にするということだ。
それは,かつての実践記録が,教師の見た内容をもとに主観的に構成した語りであったこと,そのことからの反省として,データや子どもの感想文などを実践の事実として重視したということである。
データがあるから、研究ができる。
もともと体育同志会は,アメリカ的な生活教育から出発しているので,調査を重視したという流れもあった。
だから,たとえば『グループ学習による体育技術指導』(1961)という本では,競技の歴史,技術,審判法,計画,グループ編成とグループの計画作成,練習,校内大会,教師たちの語り,子どもの感想などが網羅的に載っている。
しかし,この頃はまだ子どもの発達とか,わかり方とかよりは,いかにしてできさせるのかの方が重視されていたのだろう。
2対0という考え方も,典型かモデルかという議論があったが,当初はその発展系として3対0,4対0と発展するというように,数字上の発展がおかれていた。
しかし,その発展する論理が何か,あるいはどうなれば3人の攻撃にいけるのかというのは,子どもの側の理屈を確かめるしかない。
これは,子どもの論理なのか,子どもも大人も関係なく技能の側の論理なのか,こういったことはなかなかわかっていないが,それに迫ろうとしたわけだ。
逆に言えば、プレーの質に迫ろうとした調査は、これまではなかったのではないか。
こうして,堀江さんが転勤してきた。
「何でも飲み込んで,堀江流に整理して出してくる才能の持ち主でした。
お話マットの創始者でしょう。」
「根本先生はサッカーの心電図に凝り始め,効能を確かめるべく盛んに作文を書かせていました。
私が6年担任だった時,作文と体育と図工は私に教えさせろととられてしまいました。
音楽や理科の専科もいましたから,私は国語,算数,家庭科ぐらい,暇な担任でした。」
味噌を造ったり,墓地を調べ上げて年表をつくったりしたという。
子どもがうどん粉の原料はうどんだといったから,小麦を育てて,うどんもつくったという。
等高線のモデルはタマネギだった。
「体育の時は紙を貼った板を持ってなんでも書き留めていきました。
練習回数の指示。
足し算して100回は練習する。
ペアの様子。
気になること等々。
気づいたことは何でも書いておきました。」
実は、手元に菊池先生の書かれた「サッカーの授業」という文章がある。
これは,中村敏雄さんが中心となって『体育科教育』に連載した「体育の授業研究」の7回目にあたる。
1973年4月号に載っている。
この実践記録のことは,小林篤さんもとりあげているのだが,ユニークな書き方がしてある。
授業の実際は,内容ごとに区切って,児童のやることや児童の発言と,教師の働きかけや実際に話したことなどが書かれている。
そのあとで,「独白」という形で,この時にやった内容が良かったのか悪かったのかなどが振り返って書かれている。
「班ごとに練習しなさい。20回ぐらい」と高く蹴る練習をさせるのだが,5分で上手な子同士で19往復,下手な子同士で10往復という事実が出てきて,この指示が悪かったと反省をしている。
「練習量を指示するのもなかなか難しいということになる。
習熟度のこととからんで今後データをとってみたい。」(31頁)。
こういったことも,曖昧にせずにデータをとって検証していったのだろう。
この辺の突っ込み方がすごいと思う。
「2対0がゲームに生きない」と嘆くのではなく,何が起こっているのかの事実を明らかにしようとしたわけだ。
それが,「心電図」へとつながっていき,うまくなる質を取り出す方法が誕生したということだろう。
続きはまた今度。