体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

日生連に対する誤解(!?)がありました

 こんにちは。石田智巳です。

 

日生連(日本生活教育連盟)について,ちょくちょく書いてきましたが,どうも誤解をしていたようです。

今日はそのことについて書こうと思います。

では,どうぞ。

 

先日,試験監督が終わって昼休みに入ったときに,昨年までうちの中等教職教育のセンター長をされていた山岡雅博先生と一緒になったので,話を聞いてみようと思った。

山岡先生は,以前,話をしていたときに,フレイレの教育学というのか,ポストモダン的な発想に立っているように思っていたのだ。

だから,リオタールの「大きな物語」に対抗する「小さな物語」的な実践や,支配的で抑圧的な物語に対抗する,オールターナティヴな物語などを意識されているのかなということを聞いてみたかった。

 

写真は『グラムシフレイレ』。読んでみたいと思って買ったが,未だ読んでいない。

 

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山岡先生が,日生連で編集を担当されているということも,かつて聞いて知っていた。

だから,弱いものの立場に立つ教育学が,山岡先生個人の発想なのか,それとも日生連の到達点なのか,あるいは別の影響なのかを聞いてみたかった。

 

まず最初に話を聞いてびっくり。

日生連には,綴方の人たちもいたということだ。

実は,このびっくりは,2度目なのだ。

それは,1960年当時,和光中学校におられた体育同志会の伊藤高弘先生に,作文教育の影響があったのかどうかを訊ねたところ,和光には作文をやられている方がいたということを聞いたときのことだ。

 

和光はかつて,日生連の前にあったコア・カリキュラム連盟の実験学校だったのだ。

だから,コア連は,アメリカ型の生活教育をやっていて,それから解散して日生連になったとしても,日本型の生活教育である綴方とは仲が悪いのかなと思っていた。

 

でも,ということは,日生連と,教科研(教育科学研究会)と日作(日本作文の会)は違う主張をしていると云うよりは,重なっている部分もあるということなのだろう。

そういえば,僕がここに来たころに教学部長をされていた先生は,2009年だかに教科研の全国大会をこの大学でやったという。

 

そして,その人は,教科研と日生連に学んだということを聞いた。

そのときには,「節操がない」とか思ったが,今思えば別におかしくはない。

こちらがいろいろ知らなすぎただけなのだ。

 

民教連関連でいえば,日作も,日生連も,教科研も,体育同志会も,他にもあるが,どちらかというと権力に対しては比較的自由にものをいう方だ。

というか,それを僕は,階層や階級の下の方に味方するという意味で,左翼という。

いずれにしても,60年代に多くの組織はそれまでの考え方をシフトして,今にいたっている。

学習指導要領体制と対峙してそうなったとも言える。

 

で,話を戻すが,体育同志会が,教材研究(教科内容研究)とグループ学習の研究を会の中心的な研究にしており,また全生研(全国生活指導研究協議会)が,「班づくり・核づくり・討議づくり」を会の研究の中心に据えているのに対して,僕は,日生連の研究というのがあまりよくわからなかった。

 

聞けば,子どもを生活主体として育てることを実践の中心にしているという。

それこそ,「山びこ学校」ではないか。

全生研とは違うが,子どもたちの自治や自律(自立)のあり方,教師の関わり方などが研究されているようだ。

 

山岡先生も,子ども一人一人がかけがえのない存在として,この場(クラス,集団)にいるということ,互いにダメ出しもできるような関係を作るということなどを大切にしているという。

山岡先生は,東京の中学校の先生をされていたのだ。

 

そして,先日書いたブログの記事(体育同志会の実践研究についての覚え書き4-人格形成論は? )の最後に書いたことを思いだして,ぶつけてみた。

つまり,学力と人格の問題である。

60年代の科学志向は,人格形成的な側面をうんと弱めてしまったけど,訓育的側面,あるいは自治・自律(自立)に関わる側面をどう考えたらいいのかということである。

 

山岡先生は日生連では,「学力」という言い方はしないといわれた。

「学ぶ力と生きる意欲」を総合的に捉え,一人の人間として育てるのだという。

そして,実際に育っていくという。

 

それは,例えば生活教育を重視している東京の私立高校の生徒たちは,大学入試の際の集団討論でも,討論を深いレベルに持って行って,その場にいた他校生の意見をも活発に引きだしてくるという。

なるほど,単純に学力の高低とは違う規矩準縄があるということだ。

 

これはまさに,石田市長の下で,犬山市が学力テストを受けなかったことと似ている。

「いわゆる」学力が育っていないわけではないが,それだけをやっているわけではない。

それも含めて,集団の中で生活主体として生きることを目指すということなのだろう。

このことはよくわかる。

 

しかし,一方でわかりにくい部分というか,ある種のムードで語られるのではないかと思ってしまう部分もある。

それについては, ちょうど先日考えていたことがあったので,その例を引き合いに出して話してみた。

それは,「自殺数の推移を読み解く」といったときに,自殺の定義が共通のものでなければ,数は確定できないということを読んで思ったことだ。

 

実は,このことは,体育同志会の冬大会で,「集団の質が高まる」とはどのようなことをいうのか,という質を決めることができなければ「高まった」ということは言えないという問題にあたったときに思ったことだ。

さらに,その質は,作業仮説のような理論モデルを作って,演繹的に明らかにするのか,集団的に検討する中で帰納的に見つけていくのか,どっちなのかということ。

 

この問題は自分でいうのも何だけど,いい問いかけだと思うのだ。

そして,方法はやはり,理論モデルは作りたくない。

みんなで見つけていくと考えたいのだ。

それが集団検討のいいところのはずだ。

 

だから,学力と人格という枠組みではない,集団が高まる(それは,プレイの質でもあり,学習集団の質でもある)ことを見つけていくことが,体育同志会的な目標になるのかと思ったりした。

個人の学力が高まるとかいうと,どうしても能力主義的競争という一元的な競争に駆り立ててしまうことになるから。

ただ,こういう質が同定されると,手続き的に子どもに当てはめるようになることが起こることも睨んでおく必要があるだろう。

 

山岡先生とは,その後,制野さんと徳水さん(みやぎでの中間研究集会で話してくれた方)の話で盛り上がり,ナラティヴ実践の可能性を語り,子どもや学生の話をして,冷房が効きすぎて寒くなったのででてきた。

何らまとまった話はしていないが,刺激的だった。

誤解は解けたけど,理解をしたというわけでもない。

そんな単純に理解できるものでもない。

 

話を終えて振り返ってみると,子どもが「今のままでいい」という自分の存在意義に気づけるということが,すでにその子と周りの子どもたちが成長しているということであるということだろう。

そのことは,「駄目な自分でもいい」という新自由主義的な発想でもなく,運動がうまくなる,難しい幾何がとけるという個人の能力に解消されない,「いい意味」での「学校的能力」を身につけたということなのだろう。

 

体育同志会では,しかし,このことをどう考えているのだろうか。

おそらくいろいろなのだろうが。

 

でも,ここは研究団体として大切な部分であり,議論してみんなの意見を引き出してみる必要を感じています。

 

 

 

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