体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の6月研究局会議in新宿

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は6月27日に行われました,体育同志会の研究局会議の様子です。

全国常任委員会の様子も書こうと思ったのですが,書けませんでした。

では,どうぞ。

 

土曜日の朝は,早めに起きて支度をする。

とはいえ,印刷物などは用意してある。

読まなくてはいけないであろう文章をプリントアウトして,8時に家を出る。

電車の中では,野口裕二『物語としてのケア』を読む。

これがなかなか面白い。

 

あまりに面白いので,新幹線に乗り換えても読み続ける。

東京に着いて,中央線に乗り換えても読んでいた。

この本については,また紹介したいが,途中で関連する本4冊をネット注文した。

一番読みたいと思った本が品切れだったが。

そうこうしているうちに新宿について,電車で読むためにプリントアウトした文章を読んでいないことに気づいて焦る。

 

読まなくてはいけないのは,この夏に行われる大阪みのお大会の基調提案だ。

大阪の方も苦労されて,何度も書いて,コーディネート役の方がかぶりをなくして,措辞を整えて,すっきりさせて持ってこられたのに,読まなかった。

といっても,僕は何度も読んだのでよしとしよう。

でいいの?

 

写真は,事務所から見た高層ビル。

手前のタンクが,高層ビルと並んで負けていない。

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研究局会議は,常任委員会の前に行われる。

実は,この常任委員会は,夏大会の前の総会で年度が切り替わるので,年度最後の常任委員会となる。

研究局会議もそうなるだろう。

そこで,今回やっておかないといけないのは,総会に出す研究局の総括と方針の文書案,それと12月の冬大会の案だ。

前者は僕が,後者は神谷くんがつくってきて検討した。

 

総括と方針は,おそらく僕があと2年は局長をしないといけないので,この間の流れを確認し,オーソドックスな方針提案となっている。

研究の内容については,運動文化論の深化・進化というよりも,運動文化論のリレーランナーを育てるために,実践力の向上をねらいにおいている。

実践力の向上のためには,実践というものの見方,考え方,作り方,子どもの見方,総括の仕方などを学ぶということを考えている。

ハウツーを学ぶのではなく,すぐれた実践記録から実践の見方,考え方,作り方等を学び,そこから実践を構想,実施,総括をできるようにするということである。

 

これを書いて金曜日の昼すぎに印刷をしたが,印刷をして戻ってきたら神谷くんから大胆な提案があった。

それは,なんと8カ年計画で「21世紀型生活体育論」の輪郭を描き,実践を考え,検証するというもので,最初の2年はそのフレームワークづくりとなるというものだ。

2005年に森敏生さんが「21世紀型生活体育」を提案して以来,いろいろな解釈がなされてきたそれを一度土俵に乗せて,議論しようというものだ。

印刷し直しはできないので,A4で1枚にしてこれも印刷した。

 

実はここだけの話,僕が今もらっている科研費のテーマは生活体育論なのだ。

佐々木-瀬畑論争をうんと掘り下げて,それが生活体育論争であったことを歴史的に実証し,そこからこの論争の影響を探るというものだ。

僕の視野は,1960年から現在までとずいぶん広い。

だけど,そのことと会の研究課題にすることは別だと思っていた。

もし,会の課題として構想する以上,全国大会や集会,各支部の活動に具体化しないといけないから。

 

確かに2013年の冬大会で「地域や生活」を扱い,2014年のみやぎでの中間研究集会とみやぎ大会で「生活」を扱ってきた。

その意味では時宜にかなっている。

しかし,2013年の冬大会は参加者が少なく,この路線でいくことにかなり危機感を持った。

つまり,ターゲットにすべき若い人たちは,おそらく「他人事」として参加をスルーしたのだと思う。

それは,体育同志会の理論と実践の深化よりも,目の前の自分の実践をなんとかしたいという思いの方が勝ったのだと思うし,その思いに大会のテーマが応えていないと映ったのだろう。

 

そこで,将来的な理論の深化のためにも,今は実践的力量を高めることを目標に置いた。

そのため,昨年の冬大会は,グループノートや感想文を読みながら,実践やグループの質の変化を読み取る作業を行った。

この冬大会の部分をもう少し広げたいというのが,次の2年の僕のねらいだ。

 

神谷くんのねらいは,常任委員会でも語られ,まずは常任委員会の始まりに学習会のような形で行うというという意見も出された。

これまで「3ともモデル」で実践を考えることをやってきたのに,今度は「21世紀型生活体育」では,やや混乱を来すのではないかということ,あるいは,「運動文化における生活と子ども」のような形で追求する,「21世紀における運動文化論とは」というもっと大きなくくりで,生活,運動文化,グループ学習を追求する,などの意見も出された。

いずれにしても,研究局でまず学習会を開催し,それを常任委員会で検討するという手順から始めることになるだろう。

そして,神谷研究局長の時代に,重点的に研究することになるだろう。

 

次に,冬大会について。

これも具体的な案が出てきた。

昨年の冬大会の成果と課題を生かして,今年も昨年と同じようにやることが確認されている。

神谷くんの中でターゲットにしている実践が一つある。

昨年,俎上に載せたのは2本だったので,もう一本の実践をどこから調達するかということだが,これはグループノートや感想文がないことには話が始まらないので,これは決められなかった。

 

そもそも,昨年の成果と課題は何だったのか。

実は悩ましい問題があったのだ。

それは,冬大会の最終日に語られたある言葉だ。

 

「3日間議論を集中的にやるのであれば,やはり成果と課題を整理するべきだ。

総括がないといけない。

少なくとも,研究局としてはこういう結論を出したいと思うがこれでよろしいでしょうか,というのがやっぱりいるのではないか。」

 

そういう観点から成果を出すには,研究方法を明確にする必要があるのだ。

それは,冬大会後のブログに書いた( 体育同志会の冬大会 3日目の様子(その1)  )。

そちらを参照してほしいが,ざっくりと二つの考え方がある。

 

「集団の質が高まったとは何をもって云うのか?」という問いをたてるとする。

1つは,この問いに対して,あらかじめ研究局で,こういう記述が出てきた場合と仮定しておく。

これは,世間一般には演繹法という。

その場合に,集団の質の高まりそのものが定義されていないといけない。

 

もう一つは,そういう仮定をなしに,みんなが好きに読んで,これがそういう記述になるのではないかというものをあげて,そこからどうやら集団の質が高まるということはこういうことをいうのではないかというモデルのようなものを作り上げていくこと。

これは,世間一般には帰納法という。

このときに,集団の質についても明らかにされる。

 

そして,研究局はやや禁欲的に後者を取ろうとしたと総括した。

だから,それについての議論が実は必要になる。

僕が「後者」というのは,前者だと誰かが思いついていったことがモデル作成のもととなってしまい,それに引っ張られるとちょっとまずいと思ったからだ。

そうではなく,後者から実証的に(帰納的に)モデルをつくる方が,体育同志会らしいと思うのだ。

 

だから,その意味でも,昨年の成果をもう一度,こういった観点から見直しておく必要があるのだ。

書いているうちに,だいぶ,頭が昨年の冬大会モードになってきた。

そうだ,冬大会の成果と課題を,総会の議案(研究局の総括と方針)に書くようにいわれていた。

カチャ,カチャ,カチャ。

はい,書きました。

 

しかし,もう一つ,二つ冬大会については考えることがある。

それは,若い人のモヤモヤ感だけではなく,すっきり感をどこに感じ取ってもらうのかである。

グループ討議においてベテランがリードするだけでなく,若手が意見が言えるように,あるいは学びが進化するような配慮が必要ということだ。

リーダー役任せではなく,こちらで仕掛ける必要もあるように思う。

 

もう一つは,感想文を客観的な対象として読むだけではなく,教師の意図を尊重し,それに沿った形で子どもたちの学びが深まっているのかを読み取るような会にしないといけないということだ。

それがないと,実践そのものへの注文が多すぎることになる可能性が出てくる。

このことへの配慮も必要だ。

 

ちょっと書きすぎました。

研究局会議だけで終わってしまいました。

みのお大会も始まっていないのに,研究局はもう冬のことを考えているということです。

 

 

 

 

 

 

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