『たのしい体育・スポーツ』 6月号(№292)が届きました。 でも上野山さんの実践を読みます。
こんにちは。石田智巳です。
6月1日にキチンと『たのしい体育・スポーツ』が届きました。
月がかわって,月曜日に『たのスポ』が届くと何となく嬉しいですね。
では,どうぞ。
6月号が届いた。
この記事は,書いてから少し寝かしてしまった。
一通り目を通してみたが,読んで書くのには,ためらいがあった。
届いたが,なかなか重たい。
あつかっているテーマが,「私たちの体育・スポーツ実践といのち・からだ」だからだ。
執筆陣にやや偏りが見られ,テーマと執筆内容が統一されていないような印象を受けるが,それも仕方がないのだろう。
なにしろ,テーマが重たいから。
ただ,現場実践が制野さんの実践しかないのが気になるところだ。
からだに関わる実践は,他にもあると思う。
かつての野口体操を体験した授業や,人間の身体運動の発展史的な実践もあった。
その成果と課題もまた知りたいところだが,おそらく未整理なままなのだろう。
とはいえ,森さんの理論的な課題があるのだから,実践的な成果と課題があるとよかったのだが,そうなると執筆は久保さんとなって,偏りが出るということだろうか。
からだやいのちの問題は,健康教育の領域にも関わってくる。
上野山さんには,先日の中間研究集会のときに,かつて書かれた実践記録をいただいた。
それは,『たのスポ』2006年11月号の「世界の子どもを助けたい!」と題された6年生の飢餓問題を扱った総合学習の記録であった。
上野山さんは,健康教育の推進に腐心しており,僕も冬大会などで登壇してもらったりしていた。
そこでは,健康教育の中味だけでなく,「対話の授業」の考え方や進め方などの紹介もしてもらった。
本当にすごい,プロの実践だと思う。
ということで,上野山さんの実践を紹介する。
あるときに,上野山さんはダイジェスト的に語られるので,また実践記録が読みたいですと告げたら,自分がすごく主張した実践があったことを話してくださり,実践記録を持ってきてくれた。
健康教育は社会を映し出すとか,健康教育はどこでもドアだという言い方をされるが,確かに,「睡眠」「環境ホルモン」「水俣病」「みんどこ」「原発」「インフルエンザ」などは,すべて「いのち・からだ」の問題につながっている。
冒頭は,「JR脱線事故を繰り返さない!」とあり,当時の学校での苦悩の様子が語られる。
6年生になって,学年団が管理を強めて,子どもたちはストレスを感じ,不平・不満は弱い立場に向けられる。
周りの厳しい先生たちからそれた攻撃の矛先が,上野山さんに向けられる。
この管理体制を,上野山さんは,当時のJR宝塚線の脱線事故,日勤教育になぞらえた。
こういう状況で,健康教育のスペシャリストである上野山さんは,子どもたちを自分の土俵である健康教育領域に連れてきて,勝負に挑む。
「生き方や生存権を問う健康教育で子どもたちと学び会うことで『学級崩壊』といういやな言葉を否定し,子どもたちのエネルギーを生の方向に向かわせたいと思った」(20頁)。
きっかけは,女子のボス的な存在のAが「将来ユニセフの仕事につきたい」といってきたことだ。
2001年にだされた,「世界がもし100人の村だったら」をもとに,貧富の差,飢餓問題に取り組んでいく。
Aの変化にかけたのだろう。
まず,ハンガーマップ,命の水,ホワイトバンドを教材に授業を進めていく。
細かいことは省略するが,世界で起きていることと,自分を取り巻く環境との違いに素直に驚く感想,世の中を変えていきたいという感想が寄せられる。
さらに,上野山さんの学校の地域にある国際飢餓対策機構(NGO)の職員を招いて,世界の子どもたちの児童労働,路上生活,飢餓の現状やNGOの活動を紹介してもらう。
この辺のフットワークの軽さというのか,アンテナのよさというか,器用仕事というのか,使えるものはすぐに見つけてきて使うというセンスのよさが上野山さんらしい。
そこから,自分たちが豊かなのかを考えさせていく。
子どもたちは,今の自分たちの現状,そして何ができるのかを考えていく。
そして,世界の子どもたちを救うために,自分たちにできることとして,「やっぱり」なのだが,「募金」がでてきた。
単なる募金ではなく,ホワイトバンドに見立てたミサンガをつくり,それで募金とトレードという発想が出てきた。
結果,いつもの募金の5倍のお金が集まった。
そして,子どもたちは親にもその成果を話していく。
子どもたちは,やってみていろいろな意味がわかったという。
達成感を感じていたという。
実は,児童会からホワイトバンド禁止が言われていたのだった。
何でそうなるのかは書かれていないが,変な力が働いたのだろう。
でも,ミサンガがOKだったので,結果的に「合法的に」勝利をおさめた。
Aも熱心に取り組み,当時の小泉首相や,天皇陛下にもあててミサンガ入りの手紙を出したという。
上野山さんは,気になる子どもがいれば,その成長の様子を親にも共有する。
親の態度が子どもの態度に表れることが多いので,子どもをほめることで,親が子どもを見直すきっかけになる。
子どもたちは,自分が世の中の役に立ったそのこと,そしてそれを教師や保護者や友達から認めてもらうことで自己肯定感を高めていく。
ヘーゲル先生の「社会的承認」というやつだ。
そして,環境ホルモンの授業でもそうであったが,健康教育の学習を通して,救われたのは世界中の子どもたち(もちろん一部)もであろうが,「自分たち」だという自覚を持つことができたという。
上野山さんの学習には,いつも外部の人(専門家,保護者)が登場する。
そして,他の教科ではなかなか自信を持って発言したり,取り組んだりできない子ども,課題を持った子どもがいきいきと活躍する姿が描かれる。
また,具体的な活動が差し込まれている。
そこに向けた学習という形を取っており,受動的な知識の学習では終わらせない。
この実践で本当に救われたのは,上野山さん自身だったのだろう。
いただいた実践記録には,編集後記もつけてあり,上野山さんは以下のように書いている。
「感情をなかなか出しにくい私でもこれでもかと教師の生きづらさをぶつけて書いてしまった」。
こんなことも。
「執筆には苦労はつきものだが書くことで自分を客観的に見つめ,積極面を見つけられるいい機会になると思う」。
だから,「原稿依頼を引き受けてほしい」と結ばれる。
それにしても,「積極面を見つけられる機会」という言い方がとても素敵だ。
実践記録は「英雄主義」だという批判があったこともある。
たいてい成功したという実践が書かれるという意味だ。
しかし,実践記録は自分が前を向いて生きるために書くのだ。
自分がこれなら生きていけるという枠組みを自分で用意するのだ。
だから,成功したという積極面を強調した記録でよいのだ。
ここは「タラレバ」になるが,上野山さんは,実践をやっても,もし記録に書いていなければ,生きづらさは解消しなかったのかもしれない。
実践上の細かい問題は,みんなで議論すればよい。
やってはいけないのは,強調された積極面を否定することだ。
というのが6月号の批評です(全然違うね)。
というのも味気ないので,からだ論について感じたことはまた書こうと思います。