大学の部活動における体罰と暴力の問題について
こんにちは。石田智巳です。
今日は,体罰・暴力の問題について考えてみたいと思います。
ある新聞社から取材の依頼があったのですが,その依頼は断ってしまいました。
ただ,ちょっと思うことがあったので,専門外ではありますが,自分なりの考えをまとめておきたいと思いました。
では,どうぞ。
今日は,朝は家にいて仕事をして,午後から大学の近くの小学校に,学生ボランティアと教育実習に関わってお願いに行ってきた。
最近,外に出ることが多く,でもやはりメールや電話でお願いするよりも,こちらのスタンスを直接会って話した方がよいと思った。
小学校から戻ると,新聞社からの依頼があったというメールが,大学の広報課の方からあった。
大阪のある大学で最近起きた部活のなかでの暴力事件にかかわって,「なぜ暴力が起きるのか」「防止するにはどうしたらいいか」という問題について訊きたいという。
そんなこといわれて,思いつきの防止策をいうわけにもいかないし,こういうものはそう簡単なものではないのだ。
滋賀でいじめ自殺事件が起きたときに,そこの学校は道徳教育の推進校だったという話を聞いたことがある。
ある意味では,それが今の道徳教育の成果なのかもしれない。
しかし,政府はその事件を受けて,「道徳の特別教科化」という対策を取った。
これで,上手くいかなかったらどうするのだろう。
現場の努力が悪いとなるのだろう。
というか,それで上手くいくと思っているところにボタンの掛け違えがある。
あとは,ゼロトレランスなのだろうが,それは抑止力になるかもしれないけど,根本的な解決にはならない。
つまり,そう簡単になくすことはできない。
だから,部活の暴力問題のメカニズムは語ることができるかもしれないが,防止策を軽々に口にすることはできない。
このメカニズムだって,そう簡単に語ることはできない。
メカニズムがわかれば,防止できるともいえるのだから。
そういうことも含めてであるが,それらを乗り越えていった事例を丁寧にあたって,試せることをやってみるしかない。
それにしても,体罰暴力に関しては,かなりうるさく言われているのにもかかわらず,こういう問題が起こってしまう。
でも考えてみれば,バカッターといわれるお店の冷蔵庫に入って写真に撮るだとか,店員に土下座させて逮捕だとかが繰り返されるのだって同じだ。
冷静に考えれば,やめればいいのにって思えるのに,やってしまうのはなぜなのか。
よくわからないが,道徳心を操作すればよいというものではない。
さて,この体罰暴力を考える視角は,大きく3つがあったと思う(他にもあるかもしれないけど,僕は門外漢のところがあるので知らない)。
一つは,平和学でいうところの暴力の三層構造。
もう一つは,教育方法としての体罰の容認と推進。
スポーツそのものの問題。
三層構造について。
これは,暴力の問題は,①直接的暴力,②文化的暴力,③構造的暴力の3つの層で考える必要があるということだ。
①は,わかると思うが,暴力そのものだ。
②は,暴力を肯定する言説があるということや,それを許す雰囲気があるということ。
これは,大阪で起きた,体罰による自殺事件が起きた学校の様子を聞けばわかる。
③は,戦闘地域や極度の貧困状態など,暴力・暴動が起きざるを得ないような状況。
②は微妙なところがあって,暴力はいけないから道徳を重視するものの,その進める側が体罰や暴力を容認するようなことを言っていたりするのだ。
でも,こうやって見れば,体罰や暴力が起こるのは,その個人の資質もだが,それ以外のところにも原因が求められる。
その意味で,しばしば事件を起こした人の「被害者性」が言われたりすることもある。
二つ目の教育方法としての体罰の容認。
もともと社会は放っておけば,要求と要求がぶつかり合って,戦争状態になる。
そのため,国家なるものが必要で,その利害を調停する機能がある。
しかし,そういう要求は誰にでもあるのかもしれない。
暴力的であるかどうかは別にして。
でも要求は,避けて話し合いによって調停してきた。
しかし,暴力的な解決を公的に認めていたのが軍隊であり,その仕組みを取り入れた学校であった。
軍隊では,秩序を守るため,上意下達であり,私的制裁も行われていたという。
そして,スポーツであるが,これはスポーツが日常生活では見られない,力一杯蹴る,打つ,投げる等をするわけであり,監督やコーチは暴力を飼い慣らす人だった。
勝つことへの周りからの要求が強くなれば,どうしても指導が厳しくなる。
さて,もう一つ忘れてはいけないのが,仏教における修行である。
それでなくても,一休さんに出てくるように,座禅を組んでじっとしておられないと,肩をたたかれる。
荒行なるものもあって,先日訪れた天川村にも大峰山があり,そこで苦行・荒行が行われる。
これは,精神面を鍛えるには肉体面に働きかけるという,精神修養の方法となっている。
その影響も十分考えられる。
というか,日本におけるスポーツ受容は,戦争時代のことであり,遊び(play)としての受容ではあり得ず、精神修養の手段でもあった。
あとは,ちょっと思ったのは,日本だけではないけど,男性中心社会というのも関係があるのかな。
男性中心社会というのは,レヴィ=ストロースの構造人類学ではないが,女性を交換することで,社会を維持しようとする社会である。
男性が女性を蔑視するのは個人的な感情ではない。
社会が女性を蔑視するシステムと言っていいかもしれない。
ここは誤解を招きそうだが。
日本の社会では,結婚するときに,父親の姓で,○○家と△△家の式場とか書かれているし,そもそも父親の姓を名乗ることもよく考えれば不思議。
あるいは,先祖を語るときに,父の父,その父と父親の系列をたどる。
同じだけ母の母,その母がいるにもかかわらず。
で,こういう社会では,女性蔑視といっても,女性と結婚して子孫を残すために,できればいい女性と結婚したいし,別の男性と女性を奪い合うこともある。
漱石の『それから』や『こころ』はそれをテーマにした小説だ。
もともと,体罰や暴力が起こるのは,教師と生徒,コーチや監督と選手,そして,軍隊や部活などの上下関係,そして,宗教的において。
これって,非対称的な関係になっているのと同時に,男性中心社会なのだ。
男性以外は,女性と子どもがそうなのだが。
スポーツだって元々男性の文化だった。
今では,軍隊にもスポーツにも女性が出てくるが,もともとは男性のものだった。
男性中心社会で生まれたのだ。
僕らは,男性中心社会以外の社会を,あまり上手くイメージできないけど,構造的な暴力には,この男性中心社会というものも関係があるように思うのだ。
とはいってみても,何の根拠もないし,ただの思いつきな話なので,こんなことを新聞記者に話すわけにはいかない。
でも,せっかくだから,この機に自分の考えていたことを表現してみました。