体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 5月号(№291) 渡瀬論考を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』2015年5月号の渡瀬論考を読みたいと思います。

タイトルが「本質をとらえた教育実践が仲間を増やす!」です。

「本質をとらえた」というこの言い方が,鍵ですね。

「本質をとらえる」とはどういうことなのかがわかると思います。

*そこまでたどりつきませんでした。

では,どうぞ。

 

渡瀬さんという方の名前はよく聞いていたが,昨年はじめてお目にかかる機会を得た。

といっても,「はじめまして。石田です」「最近どうですか?」とかいう話をしたわけではなく,僕が話をした場にきてくれていて,質問をしてくれたと云う程度。

今年3月に退職されたということは,京都の福川さんと同い年ということだ。

もう少し上の方だと思っていた。

 

さて,論考は,渡瀬さんが能勢から岸和田に転勤したところから始まる。

荒れていた学校の経営方針が「ガラスを割る数を200枚以下にしたい」というもので,それに驚いたという。

驚くよね。

そのために,どうするのかがせめて示されないと。

それは示せなかったのだろう。

なぜならば,「校長・教頭そして生活指導担当者がガラスを割った子どもたちを力で押しつけている現場に遭遇した」わけだから。

 

そして,渡瀬さんは,生活の苦しさの反映として,荒れが起こっていると読む。

「この時大阪にしかないといわれる5つ目の虐待『経済的虐待』を容易に想像することができました」。

おおっ,「経済的虐待」ね。

これは,ほら,えっと,田中孝彦さんが書いた文章にあった「社会的虐待」というのと同じ。

4つの虐待とは,身体的,性的,心理的,ネグレクトのことだが,経済的な虐待というのは,貧困であり,虐待の主体が社会であり,行政であるということだ。

 

次がいいのだが,子どもが荒れるのは,「生活背景だけでなく主役としての出番がないからではないだろうか。もし,活動の場があれば落ち着くのでは?」と考えたそうだ。

僕は,この考え方はとてもいいなあと思った。

というのも,確かに学力が低位なのは,生活保護の割合と相関があるだろう。

子どもの荒れも,相関があるのかもしれない。

しかし,それを社会や行政のせいにしていても,子どもの荒れはなくなるものではない。

そこで,子どもを主役にするという教師なりの発想が出てくる。

 

竹内常一さんも次のようにいう。

「単発の活動を断続的に提起するのではなくて,活動がつぎつぎと活動を呼び込んで,発展的に展開する」ような工夫が望ましい。

「問題を起こす子どものあとを追いかけることよりも,子どもたちが身を乗りだす活動を提起することを大切にする」。

「クラスの秩序をつくるよりも,活動をつうじて子どもたちのつながりをつくることを追求する」。

「子どもたちにとって必要な『集団』は,かれらが主体的に展開する『活動』にそってつくられるものであって,『活動』を抜きにしてつくられるものではない」(『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき』桜井書店,32頁)。

 

そこで,総合的な学習の時間や行事に着目したという。

そして,報告は運動会の取り組みを中心になされている。

2012年の冬大会で「運動会」を取り上げたとき,大阪の前田さんから,岸和田ですごい取り組みをやっていたが,今は「運動会」に総合的に取り組んでいるところは少ないという話をしてもらった。

その岸和田が,この岸和田だった。

 

運動会の取り組みは,単に演技をよく見せるとか,学習の成果とするだけでなく,行事の「企画・立案~準備~片づけ,そして,総括(反省)までのワンサイクルを子ども自身が行うこと」であり,その意義は,「真の『生きる力』を培う」ことであり,「自治の力」をつけることである。

そして,次が重要なのだが,「教師は自身が動くのではなく,子どもたちが働きやすい環境を整えることに徹したい」。

言い換えれば,教師は「黒子に徹する」ということだ。

黒子に徹するって,黒○徹子って感じだ。

合い言葉は,黒○徹子だね。

 

でもね,渡瀬さん。

その通りなのだが,ここが実は云うが易で,行うのは難しいのだ。

というのは,子どもの主体性に任せるというまばゆいセリフは,放任になってしまいがちだから。

だから,取り組みの内容とともに,放任にならないようにどんな工夫をしたのか,どんな苦労があったのか,どう乗り越えたのかがほしいところだ。

別の機会に訊いてみたいものだ。

 

次には,具体的な取り組みが書かれている。

まずは,紅白対抗から,四色対抗へ変えたそうだ。

これは,何となくわかるよね。

2よりも4の方が,役割が倍に増えるわけだから。

応援だって倍になる。

と思って読んでいくと,運動会だけでなくて,日頃の縦割り活動も同じチームになるようにして,その成果として運動会が位置付くように工夫されていた。

 

次に,徒競走・選抜リレーから全員リレーへ変えたという。

これは,よくわからなかった。

徒競走は勝った負けたに一喜一憂するし,選抜リレーは選抜される子とされない子に分かれるからかなと思ったが,「全員リレー」のメリットがよくわからなかった。

読んでみよう。

なるほど,よくわかった。

体育同志会的だった。

 

単純に云えば,全員がリレーに出るとして,一人一人の持ちタイムの合計がほぼ同じになるようにしておけば,あとはバトンパスの成否が勝敗に結びつくこと,だから,一学期にはリレーの授業をやって,バトンパス学習の成果が運動会に発揮されるという行事単元的な発想だ。

いいねえ。

 

先ほどの疑問に少し答えがある。

どうやって,黒○徹子になって,子どもを動かしたのか。

「子どもたちが自分の仕事の内容や手順を前もって十分に把握し,運動会当日は子どもたちだけで動けるようにしました」。

そして,「ハプニングにどのように対応するか」が目的となっているという。

これも聞きたいところだ。

 

僕は学生のキャンプを同じような発想で指導して,8年になる。

今年で8回目。

学生主体というは,なかなか難しく,どのポジションで関わるのかが本当に難しかった。

でも,今は何となくわかる。

 

それは,一つは実行委員会には必ず出ること。

そして,最初の実行委員会のときに,昨年度の実行委員会立ち上げから,キャンプ当日までの実行委員会や各係の動き,下見,キャンプ後の総括会議などの日程がわかるようなスケジュールを渡す。

そして,実行委員会の役割と,各係の役割と実行委員会での提案の仕方を示す。

そして,係を決めたら,前年度の総括書を読んで,今年度の日程的,内容的な見通しを立てさせる。

あとは,実行委員会では,座っているだけで,なにか進め方に問題があるときには口を出す。

ここまで手を入れておけば,学生はある程度の見通しができて,キャンプまでの動きが立体的にわかるようになる。

あとは,彼らがやらされるのではなく,自分でつくったと思えるようにする覚悟も必要だ。

だから,最高にいいものではなくてもいいぐらいのつもりでいる。

 

そして,児童会の活躍だ。

これもいいね。

細かいことは書けないが,子どもたちになるべく全部やらせるというわけだ。

それは,「自治」の力を育てるため。

そのために,「『どんな運動会にしたいか』『そのためにはどんなことをみんなが守らなければならないのか』を子どもの言葉で話すことも大切であると考え,内容は事前に代表委員会で話し合い決定」したという。

これね。

 

宮城の神谷くんが,冬大会で運動会を取り上げたときに,彼の報告の中心概念が「意志」だった。

これは,文献でも,制野さんの運動会の作り方でも,意志の表明に時間をかけていたことから来ているといっていた(詳細は,『運動文化研究』30号参照)。

この意志の表明をうまく引き出せば,そのために何をするのか,今の活動は表明された意志に沿っているのかがモニタリングできる。

 

こうして,おそらく息の長い取り組みだったのだと思うが,「学校が様変わりし落ち着いていきました」と結ばれる。

続きはまだあるけど,今日はこれまで。

 

 

 

 

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