教科内容研究と子ども研究は違う次元のものなのか?
こんにちは。石田智巳です。
今日は,タイトルに書いたように,教科内容研究と子ども研究は別々のものなのかについて考えてみたいと思います。
では,どうぞ。
僕は体育同志会の研究の課題の一つに,子ども研究というものがあると思っている。
ところが,子ども研究というのは結構難しい。
というのも,かつて赤い鳥綴方の頃は,子どもは純粋で無垢な存在というイメージがあったのかなと思ったりする。
「子ども期を生きる子どもにふさわしい文化を」といったときに,童謡や童話が生まれてきた。
これは,いい子に育ってほしいという意味があると思うのだ。
しかし,綴方からは,豊田正子の『綴方教室』のようなものも出てくる。
これはジャーナリズムに取り上げられたりもしたが,生活綴方的なのだ。
いや,もっと厳しいリアリズムだ。
そこでは,妻を寝取られた父を見て,父のように正直に生きるよりも,母のようにずるがしこくないと世の中は渡っていけないということを,生きる知恵として正子は学ぶ。
いずれにしても,本田和子さんじゃないけど,子どもはよく分からない存在でもある。
だから,子ども研究をするということは,今の子どもについて語られるも文献を分析し,自分の実感にあわせて総合するという方法が一つある。
これは,心理学で明らかにされた子どもの発達の姿を学ぶこともそうである。
しかし,僕が言いたいのは,それをどれだけ積み重ねても,目の前の子どもには迫れないのではないかということだ。
子どもに関する論理科学的に(セオリー的に)書かれた文献を読んで,目の前の子どもに当てはめることも確かに必要だ。
しかし,そのベクトルとともに,逆のベクトル,つまり,目の前の子どもを見て,その子のことを記述することによって,子どもの論理らしきものを明らかにするというベクトルが必要なのではないか。
2003年に『教師と子どもが創る体育・健康教育の教育課程試案』がつくられたときには,それぞれの教師たちの子ども観のようなものが出され,あるいは子どもについての文献などを当たり,そこから発達課題や生活課題など,そして重点教材などが考えられていた。
しかし,いったん,子ども像が書かれると,その子ども像の枠組みに従って,現実の子どもを見るということが起こるのかもしれない。
つまり,誰かが作った物語に現実の子どもを当てはめるということだ。
で,僕が言いたいのは,まずは,やはり実践記録の中に子どものことを書き込んでみて,そこに自分なりに因果関係をつけてみること(物語を作ること)だ。
次に,その因果関係がどうだったのかを,同じ手続きを踏んで,他の物語を持つであろう教師たちと検討して,物語にやはり因果関係をつけ直してみることだ。
それが,自分の一時的な語り(ナラティヴ)をベースとして,自分にとっての子どもという物語を作っていき,作り直していくために最も有効な手段のような気がする。
それは,不断に書き直されるべき性質のものなのだ。
いったん「試案」のようなものに書かれたとしても,それは私の語りの参考資料でしかなく,そちらをめがねにしてものを見てはいけない。
ところで,教科内容研究というのは,1991年の埼玉秩父での全国大会で,出原さんによって提案されたというのが,一般的な解釈だ。
そして,それについては,僕が『たのスポ』4月号と『運動文化研究』32号(まもなく出される)で,当時の教育課程分科会の議論をまとめて書いた。
そのときは,分科会の流れに沿って書いた。
しかし,同時期にいろいろ調べている中で,あることに気づいたのだ。
出原さんは,1989年に『体育科教育』で実践記録に関わる連載をした。
そのユニークな連載は,後に『「みんながうまくなる」ことを教える体育』(大修館書店)という本になる。
この本の中で,出原さんは次のようにいう。
佐々木賢太郎さんの『体育の子』を読んで,「今の子どもの『生きる』に切り込む実践とはどんなものだろうか」と問う。
そして,「今の子どもの最も主要な歪みである能力観や競争観,友達観,これらに切り込み,変革していくのが体育の授業の役目ではないかと考え始めています」という。
これは,4月26日の記事体育の授業研究と実践記録のこと にも書いた。
このときには,教科内容研究の前の時代の「わかる,できる」が重視された時代というくくりをした。
しかし,この連載があったから,つまり子どものことをよく見て,子どもに切り込むということがあったから,教科内容研究へと進んだということも書いた。
どういうことかというと,出原さんは,子どもに切り込み,子どもに迫るためには,「わかる,できる」だけではまだ弱く,そこに何かテーマのようなものが必要だったという自覚があったのではないのだろうか。
それが「教科内容」だった。
ここはものすごく複雑な話を,一つの時系列上に載せて物語るという無理をしているような気がするのだが,もう少し辛抱してほしい。
物語るということは,いつでも時系列に載せて語ることであり,無理が伴うのだ。
1971年に中村敏雄さんが,教えるべき3領域を提案する。
また,70年代のスポーツ権が授業化されにくかったこと,つまり,社会科学的な研究が実践に生かされなかったこと。
その自覚と,教える内容の明確化が,早川さんによって表明されたこと。
出原さん自身の学習集団論に必要な,上手い下手の見方と,その組織化の問題。
これらに当時の教育課程分科会の議論とが合わさった形で,教科内容の提案がなされたのではないか。
あの提案には,「下手とは何か(能力観)」「みんなで上手くなる(集団観)」あるいは,「競争/記録とは何か」「勝敗とは何か」などが含まれている。
前二者は,体育授業で起こりうる「上手い下手の混在」と「上手くなる」という子どもの問題。
後ろの二者,すなわち競争や勝敗は,スポーツ・運動文化の側の問題。
しかし,これらもまた,上手い下手観を乗り越える,みんなで上手くなるためには必要なのだ。
子どもの問題と切り離された文化研究も必要だろうが,教科内容研究といわれる場合は,子どもを視野に入れてなされるものだ。
僕は,出原提案では,草深さんが提案したような,社会の側に働きかけるために必要な知識とは何かが薄まってしまったと書いた。
しかし,出原提案は,徹底的に子どもの生きるに切り込むための道具を用意しようとしたのではないか。
道具を持たずにただ子どもにぶつかっていくだけでは能がない。
というか,体育の課題にはならない。
ただ,上述のように,文化研究といった場合,子どもとは切り離されて研究されるものも当然あり,それの研究をすることで,中村敏雄さんをして「子どもを物識りにしてどうするのですか?」と言わしめたのだと思う。
教養は,単なる物識りとしての教養ではなく,文化変革や社会変革につながるための教養でなければらななかったのではないか。
僕は,今,軽々に文化変革や社会変革という言葉を使うべきではないと思っているが。
どっかの市長やどっかの総理のように,社会を変えようとするあまり暴走する,あるいは変えるのを嫌がる人を批判,非難,排除することが起こってはいけないし。
何が言いたいのかというと,だから,教科内容研究は子ども不在だというような批判は,当てはまらない。
単なる物識りとしての教養をつけよう,あるいは授業のネタ作りとして用いようという子どもを視野に入れない文化研究にとってこの批判はあてはまる。
しかし,子どもに切り込むための道具,今の能力観や集団観やスポーツ観を変えるための教養だとすれば,当然それによって変わった子どもたちが実践記録に書き込まれるはずなのだ。
というか,順番を変えてみれば,出原さんは,子どものことを実践記録に書かせるために,教科内容研究の提案をしたのだ(多分)。
僕なりに言い換えれば,同志会的に子どもを研究するために,教科内容研究の提案をしたのだ。
という僕の物語を,はたして出原さんがどう読むのでしょうか。
追記
このことを出原さんに訊いてみましたが,すっきりとは表現できないということでした。
子どものことを考えていたというよりも,文化の側で勝負ということです。
『教師の訓話的内容ではなく、文化が持つ人格形成的内容を抽出し、それを教科内容として子供に学習にふさわしいものに作り上げるという発想です。学習集団論でいえば結びつきが一層、厳格になる、強くなる、余計な指導は入り込まなくなるということです。「スポーツにヒューマニズムを刻み込む」「刻み込む働きかけをする中でヒューマニズムが鍛えられる」・・・反映論そのままですが、このような考えが基底にあったと自覚しています。』
僕はこのまま暴走していいものかどうか。