スポーツ指導も言葉だよね
こんにちは。石田智巳です。
今日は,たまたまテレビを見ていて感じた日本のスポーツ指導,とりわけ球技なんかの指導について書きたいと思います。
これは,8月に全国教研で報告されたエイサーの実践を書いた後に考えたことです。
では,どうぞ。
体育(実技)の指導案を書かせるのは本当に難しい。
他の教科が簡単だと云っているわけではないが。
なぜ難しいのか。
一つは当然ながら,教科書がないからだ(中高には教科書はあるが,サッカーの指導内容が書いてあるわけではない)。
教科書があれば,そこにはねらいが含まれてくる。
そして,これをどのように教えようかと考える。
体育の場合は,教科書がないから,「とりあえずやる」という授業が多い。
これは,多くの場合,小学校から高校までたぶん変わらないのだろう。
さらに,体育の場合,子どもたちを動かすという難しさもある。
だからゲームのようなことをしておけば難しくはないと思われるのだろう。
問題は,教える中味を書き込めるか(言葉にできるか)どうかにかかっていると思う。
「2対2でシュート」とかではない。
それはやること。
その2対2でシュートを通して,この子たちに何を教えたいのか,これを言葉にすること。
これが難しいのだ。
これは体育授業に限った話ではないと思う。
練習はしているけど,何を練習しているのかわからないことって結構ある。
というか,チーム戦術の練習であれば,みんなが意図を理解していなければならない。
試合を見ていれば,一致しないことがしばしばわかる。
逆に一致しているチームもよくわかる。
ぼくはハンドボール部の顧問だが,日本一になる女子の大阪体育大学は,個人の能力も高いのだが,いちいち組織的に動くのだ。
和歌山で近国体(近畿の国立大学のスポーツ大会)が開かれたときに,僕は会場担当でその試合場にいた。
A大学とB大学のハンドボールの試合が行われた。
そのときに,上のリーグにいるAに対して,下のリーグにいるBが3点ほど上回って,後半の残り10分ぐらいとなった。
A大学は,そこから追いつくのだが,実力で劣るB大学は,焦ってしまって個人プレーを連発した。
結局,最後は点差をつけられてA大学が勝利した。
このときに,二つのことを思った。
一つは,焦って個人技でやるのはわかるが,それで点が取れるのであれば,初めからそうしているだろうし,そういう練習をしてきただろうということ。
もう一つは,そのことと関わって,そもそも練習の中味が絞られたものになっていたのかどうか疑問があると云うこと。
以前,ある高校(ある競技の強豪校)の出身の学生が,卒論で「プレーヤーたちの認識の一致度」を見ようとした。
そのときに,監督やコーチが何を大切にしているのかも調べようとした。
そしたら,あるコーチの回答欄に「心」と書かれてあった。
「巨人の星」には,王さんが巨人に入る前の早稲田実業の話がのっている。
練習の最中に感謝の気持ちを出させるのだ。
ノックを受けるたびに,「ありがとうございます」という。
それは本当の話か,漫画の話かはわからない。
しかし,この「気持ち」を大切にした指導は多い。
高校の部活とかのTシャツの後ろにも,そういう気持ちや心が書かれたものが多い。
日本の小学校はやたらと標語が多い。
そうやって,日本人的な道徳が育っていくのだろう。
そのことはまったく否定しない。
プロ野球のヒーローインタビューも「最後は気持ちで打ちました」といわせようとインタビューアーは必死。
そういうことを言わないと,観客も喜ばない。
だけど選手が基本的に持たないといけないのは,戦術行動とその意味を表す言葉,動きの微妙な差異を表す言葉,味方や相手との関係を語る言葉なのだ。
その言葉が持てないと,動きは変化させられない。
もちろん,それをヒーローインタビューで言えといっているわけではない。
気持ちや道徳心は,スポーツだけのものではないでしょ。
技術戦術は精神面に支えられるけど,精神面を鍛えるような練習ではなく,技術戦術を高めるような練習を集中してやるなかで,精神面も鍛えられていくはずだ。
これって,戦陣訓みたいに,玉砕するまでやるぞ!っていっているようなものだ。
だから,精神面を前に出さずに指導をした場合に,いったいあなたは何が教えられるのか?
選手は何を練習しているのか?
それは選手間で一致しているのだろうか?
こういう疑問が浮かんでくる。
まさか体育授業で感謝の気持ちや,気持ちで物事を成し遂げることは教えないでしょ。
だから体育の授業で何を教えようとしたのか,これを明確にしてほしい。
でないと,自己責任の教科論になる恐れがある。
それと,やっぱり授業以外のスポーツも同じだよね。