体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

ナラティヴ・アプローチについて

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,一昨日のブログの続きのような話になりますが,物語,あるいは物語ることについて,少し違う角度から書いてみたいと思います。

それは,ナラティヴ・アプローチ,あるいはナラティブ・プラクティスというような言葉で表されます。

では,どうぞ。

 

昨日は月曜日だったので,ブログの記事はランニングの記録だった。

これはあまり頭を使わずに,あったことと考えたことを物語ればよい。

一昨日の記事は,「物語」について書いたが,何か自分の中で変化が起こったようだった。

その代わりというのか,書くのにものすごく時間がかかってしまった。

まさに,自分が物語る枠組みそのものが変化したような気がした。

だから,いつもの調子で,お気楽に書くとか,いつもの筆致やワーディングで書くというわけにはいかなかった。

 

そのことをもう少し展開してみたかったが,梅を見にいって,忍者になり損ねて,長距離を走ったら時間がなくなった。

 

そこで,いろいろ調べたり,芋づる式に資料をあたったりしてみた。

知ったかぶりをしていてもよくないので,自分の知識は知識としておいておいて,概念的に整理してみようと思ったのだ。

調べてみたからといって,すぐにまとまった話にはならないので,お勉強のまとめをする意味で書いておく。

最初にあたったのは,ずばり『ナラティヴ・アプローチ』(野口裕二編,勁草書房,2009)だ。

 

この本は,「はじめに」「序章」と「終章」を野口さんが書き,1から9章までを社会学文化人類学,医学,看護学,臨床心理学などのそれぞれの研究者が,それぞれの領域の事例を紹介している。

全部は読めないが,とりあえず「はじめに」と「序章」を読んだ。

その後,ネットでいろいろ検索しながら,論文をダウンロードして読んだ。

 

「序章」は,まずナラティヴ・アプローチという概念が説明される。

ナラティヴとは,日本語の「語り」と「物語」の二つの意味を含むので,敢えて英語を使うという。

ナラティヴとは,僕らがよく知っているのは,ナレーションがそうだ。

だけど,人が語ったことは基本的にナラティヴになる。

実践記録はナラティヴといっていいと思うけど,語られた言葉というよりも,書かれた言葉であるということをどう扱うのか。

よく生活綴方では,語るのと違って,書くというのは抵抗のある仕事だという言い方をする。

 

ナラティヴは,「複数の出来事が時間軸上に並べられている」のが,最小限の要件だ。

時間軸だけで出来事を並べるとナラティヴ。

プロットが加わると,それはストーリーになるという。

なんのこっちゃ。

 

1がナラティヴで,2がストーリー

1 彼は駅に着いた。そして大学に向かった。そして研究会に参加した。

2 彼は駅に着いた。しかし大学に向かった。そして研究会に参加した。

この「しかし」には,語り手がもつ出来事同士の関係や意味があるというわけだ。

 

あとナラティブでない語りというものもある。

3 昨日,酒を飲みすぎたので,今日は体調が悪い。

4 酒を飲みすぎると,翌日,体調が悪くなる。

4は,語り手が語る具体的な時間の流れを表現していない。

これは論理科学モード,あるいはセオリー・モードという。

 

さらに,ナラティヴが伝えるものとして,「時間性」「意味性」「社会性」があるのだが,あまり細かい説明をしていると,くどくなるね。

簡単にいえば,私が,いくつかの出来事に意味を込めて,他者に語るということである。

 

ナラティヴの多様性としては,

大きな物語と小さな物語,ドミナント・ストーリーとオールターナティヴ・ストーリー,誰が誰に語るのか等による分類などがある。

ここでは,ドミナント・ストーリーとオールターナティヴ・ストーリーが非常に重要だと思った。

 

ドのほうは,支配的な物語であり,オの方は,それに対抗する物語である。

ナラティヴ・アプローチの実践が,医学,看護学,臨床心理学,あるいは教育学など,「ケア」に関わった実践に多く見られるということは,支配的な言説によって苦しんでいる人たちを,それに対抗できる言説を立ち上げることで,その苦しみから救うということだ。

 

ちょっと,まだ方法のレベルではよくわかっていないし,僕がセラピーのようなことをやるわけではないので,いい加減なことは言えないし,実践できない。

ただ,この本を離れて,いろいろ調べていたところ,「アディクションアプローチ」なるものに出会った。

これは,信田さよ子さんという方の援助論であり,ケアの理論である。

 

たとえば,以下の例が載っている。

友達ができないのは,自分の人間関係がへただから。

いつもマイナス思考で,自信がないことも影響している。

これが,ド(支配的)の物語である。

ようするに,教育現場に支配的な自己責任の物語である。

 

すべて自分に責任があるような物語だから,今,苦しんでしまう。

これを,私を肯定する物語,私が主役の物語を立ち上げるのだ。

この細かい方法について述べない(目的ではない)。

 

ドメスティック・バイオレンスなる言葉は,暴力を行う側(ド)の物語に対抗して,被害者,弱者の側(オ)の物語として立ち上がったのだ。

でなければ,暴力は簡単にしつけや愛情表現に裏返って正当化される(ドの物語)。

 

発達障害は,欠損として自己責任の困った子となり,その子と一緒に授業を受けさせたくない親もいる。

こういうドな物語に,困った子は困っている子だとかいいながら,一緒にやっていこうとする実践(必ずしもうまくいっているわけではないが)がある。

ここでは,その子のいいところがみんなに共有されることになる。

 

あれあれ。

僕は滋賀支部ニュースの澤さんの記事を書いたときに,体育同志会は正統的な左翼だということを書いた。

左翼って,野球の左翼以外にはあんまりいい意味で使われない。

だから,使う僕にもためらいがなくもない。

ただ,世の中を上と下に割って,下に味方をするのが左翼だ。

 

前も書いたが,体育同志会の実践の基本は,「すべての子どもに」,「みんながうまくなる」であって,それは「弱者も含む」ということなのだ。

それは自己責任にしないということでもある。

 

下の立場に立って,上の立場というか支配的な言説に対抗しようとする,このことだけ見たら,体育同志会の実践はみんなそうでしょ。

ここで「大きな物語」や「ド」は,自己責任,テスト(能力)主義,排他的競争,新自由主義で,それに対抗する「オ」は,それらの反対というか,ヘーゲル的には社会的承認,みんなで,結い,ともに,などの思想だ。

 

しかし,ここでどうやって新たな物語を立ち上げるのか,という方法論(型にはめるというわけではない)のレベルになると,とたんに萎えるのか?

いやいや,実践レベルではたくさんある。

 

うまい子とへたな子というのは,明日の自分と昨日の自分というように置き直してみれば,へた=悪いとはならない。

出原さんは,新たな物語を作り出した。

 

実は戦後の(と敢えて限定するが)生活綴方実践は,その意味からすればナラティヴ・アプローチなのだ。

 

そのことについても,また書いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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