「教育実践」の零度の手前,身体とスポーツの零度
こんにちは。石田智巳です。
最近,生活綴方や実践記録,授業研究のことを調べていて,いろいろな本を読みあさっています。
本当に,いろいろな本を買っています。
そのなかで,教育実践における「実践」という言葉がいつ使われはじめたのか,どういう意味が担わされていたのかについて,知ることができたのでここに書きたいと思います。
と,思いましたが,途中で例によって話は脱線して,そのまま「身体」とスポーツの零度の話になってしまいました。
では,どうぞ。
本を公費で買うときには,honyaclubというサイトで注文すると,研究室のある建物に届けてくれる。
そして,古本で買うときは,大きく二つのパターンがある。
1つは,アマゾンのマーケットプレイス。
これがいいのは,カードで決済して領収書はメイページから印刷できるところだ。
さらにいいのは,何しろ注文してからが速い。
そして,もう一つは少し面倒ではあるが,「日本の古本屋」というサイトにいって,そこから注文をするやり方。
これは,本と一緒に見積書,納品書,請求書を送ってもらい,それを提出する。
いずれにしても,本がないと研究が始まらないので,そうやって買っている。
図書館も利用するが,かえって面倒だったりもする。
というのは,僕のいるキャンパスには,中央図書館があり,僕がいる建物にも図書館というか書庫がある。
同じ建物の西側の地下も図書館になっていて,別の人間なんとか研究所というところにも本が置いてある。
さらに,平和ミュージアムにも図書館のようなものがある。
また,さらに別の建物には,教職関連とスポーツ関連の本が置いてある。
この建物には,旧保健体育教室の方(同志会員も多い)や,教職関連の方の研究室があるが,その地下が書庫になっている。
これはなかなか品揃えがよい。
でも,うちの大学には教育学部がないので,資料は限られたものにならざるを得ない。
例えば,雑誌「生活教育」の旧い号なんかは,体育同志会関係者が執筆しているが,この雑誌はない。
また,「現代教育科学」なんかもない。
しかも,そこに研究室があっても,別の建物の受付に行かないといけないのだ。
そして,雑誌は基本的に持ち出し不可なので,そこでコピーを取らないといけなく,機動性に欠ける。
話は長くなってきたが,要するに,資料を探すのに,あっちこっちに行くことになるということだ。
それで,教育実践の話。
何の話かというと,「教育実践」あるいは,「実践」という言葉はいつから使われるようになったかという話である。
その前に,別の例を取り上げておこう(これが失敗の始まり)。
哲学という言葉は,西周(にしあまね)が明治時代に造った言葉だということは割と有名だと思う。
これは,フィロソフィーを訳したのだが,当然西洋哲学の翻訳。
東洋哲学の翻訳だったら,儒教のような言葉があてられたのかもしれないが,それは日本にもあった。
要するに中国語の哲学にあたる言葉を用いればすむのだ。
しかし,ここがおもしろいと思うのだが,西周以外の誰かが違う訳をしていたかもしれないし,後でしたかもしれないのだ。
例えば,フィロソフィーの意味は「知を愛する」ともいわれる。
だとすれば,(僕の出身の)「愛知」でもよかったかもしれない。
愛知学と哲学では香りが違うけどね。
愛知学では,愛知県の研究みたいになって。
でも,哲学という語が採用された。
このように,言葉や文化や風習があるときにできると,今となってはその出自も知らずに,我々は当たり前のように享受することになる。
しかし,それ以前は言葉がないから全くそんな考え方も知らず,あるいは今述べたように,違う言葉が採用されていたかもしれない。
そのあたりをミシェル・フーコーの「系譜学」では,「零度」と呼ぶ。
狂気も知もあるときにできるけど,狂人なんて,それまでは別世界との交信を可能にできる人ということで,健常人と一緒に置いておかれていた。
しかし,医療の発達で隔離される対象となったということ。
「零度」といえば,三浦雅士『身体の零度』(講談社メチエ)が有名だ。
僕のなかでは,博覧強記といえば,この三浦先生と松岡セイゴオ先生だ。
普通,研究者はある分野(といっても,その重箱の隅)の専門家(スペシャリスト)だ。
ところが,三浦さんもセイゴオ先生も,様々な分野で専門家なみの知識を持っているジェネラリストだ。
この人たちも,哲学や宗教などの知識を自由自在に操る。
で,『身体の零度』は,ぜひじっくり読んでほしい本だ。
僕のなかでは大ヒット(それって,ホームランということか?)。
ちなみに(ちなみにが多すぎ!),セイゴオ先生は『知の編集術』だったかで,本も3割5分だといっていた。
つまり,本を読んでいても,どうもよくわからんし,ワクワクしないし,読み進まない,眠くなるという本があるでしょ。
セイゴオ先生でも,それはあるわけで,そういう意味で本のヒットも3割5分だそうだ。
読み手の問題ではなく,書き手の問題。
ちょっと安心する。
で,『身体の零度』には,サブタイトルとして,「何が近代を成立させたか」がついている。
これは,単純に云えば,なんでも書き込み可能なような「白紙の身体」を獲得したからということである。
ところが,白紙の身体とは,しっかりと加工された身体のことだ。
えっ,どういうこと?
ここら辺はわかりにくいかもしれないけど,よく読めばわかる。
この中に,モーツァルトとベートーヴェンの肖像画の違いについて出てくる。
モーツァルトは,赤い服にカツラ,ベートーヴェンは黒い服にぼさぼさ頭。
ハイドン,モーツァルトとベートーヴェンは,古典派音楽のBIG3だが,写真のようにベートーヴェンは1800年代に全盛,写真はないがモーツァルトは1780年代の頭に全盛。
この時代の差が大きいのだ。
ちなみに(まただ),この本は,セイゴオ先生が監修した『情報の歴史』という事典のような本で,7000万年前から1989(平成元)年までの様々な領域の歴史が並んでいる。
ここには「モーラの神」が降臨したとしか云いようがない中味がある。
モーラ=網羅ね。
で,モーツァルトは前の頁に出てくるのだが,この2人の段差は何だ?となるわけで,それは,写真の左側を見ればわかる。
「ナポレオン時代」なのだ。
フランス革命が起きて,世紀が変わるとナポレオンが登場する。
ここで,男の服からファンタジーが消えたと云ったのは,ホイジンガだそうだ。
もっとも,モーツァルトは宮廷おかかえだったが,ベートーヴェンは独立していたと云う意味では,階級の違いともいえるが。
ただ,ナポレオンはヨーロッパの特権階級支配を壊して回ったという意味では,後は市民階級の時代(?)になる。
そして,その後,世の男性は「労働服」を着るようになる。
この労働服とは,今で云う背広なのだが,その原形は軍服。
それは大量生産(産業革命)によって可能になり,身体も軍隊式に動けるように訓練される。
それはナポレオン軍が最初。
身体は,軍隊によって規格化,画一化されるのだ。
これは,日本でも全く同じで,ナンバが行進に変わるのは,軍隊の影響。
ヨーロッパでは,ナポレオンにやられたドイツで,臥薪嘗胆を期していたのが,ヤーンであり,トゥルネンを従えて,体育で身体形成を行うようになる。
日本では,スウェーデン体操だとかが入ってくるが,これも軍隊用に身体を加工するためのもの。
だから,唱歌行進とかいって,リズムに合わせて動けるようにした。
こうして,ヨーロッパを中心として「白紙の身体」,「身体の零度」にたどり着く。
おもしろいのは,近代スポーツは身体の零度の上に成り立っていると云うことだ。
だから,スポーツの成立を,産業革命と議会制政治に求めるだけではなくて,規格化された身体の獲得によってなされたということも付け加える必要がある。←新説だ。
で,大量生産による,服装の変化から規格化された身体へと進むのであるが,それだけではなく思考についても変化が起こるということもおもしろい。
ここでは展開しないが。
でも,時計の存在による時間の管理も関係があるね。
ということで,本当は「実践の零度」について書こうと思ったのですが,「零度」に引っかかって,結局「身体の零度」から,近代スポーツの「零度」という新説を出すにとどまってしまいました。
「また今度」が多いですね。
このブログは。