白浜集会の様子1日目の2
こんにちは。石田智巳です。
今日は,土日におこなわれた佐々木賢太郎記念体育教育白浜研究集会の様子の続きです。
昨日は,紀南作文教育研究会(紀南作教)の機関誌である「紀南教育」に最初に佐々木さんが載せた記録のことを紹介せずに終わりました。
これは,また紹介します。
ざっくりと話した内容を紹介します。
では,どうぞ。
佐々木さんの「紀南教育」に載せた最初の記録は,「体育ノート1」という題であって,タイトルらしいタイトルはない。
これは『体育の子』には入っていないので,前史にあたる。
同じく,前史になるのだが,佐々木さんは1952年の4月から実践記録を書いているのだ。
僕は,『実践記録ノート』3号(1952年5月30日)をもっている。
このとき,佐々木さんは「ささき・けんたろー」というペンネームを使っている。
戦後,GHQが漢字廃止論を打ち出して,日本語をローマ字表記にしようとしたことがあったようだ。
これは,占領する側にとって日本語が複雑すぎるという事情もあったようだが,実際には日本人の識字率は高いので,結局その話はなくなった。
でも,そのときに,日本語は不完全だということをいった人がいる。
それで改革をしようとした。
高倉テルという人だ。
この人が,自分のことをタカクラ・テルと書いたりしていたのを,当時の人たちは結構まねしていたようだ。
なにしろ,日本語は音と書きが一致しない。
いい例が,ケンタローである。
ケンタロウの「ロウ」は「rou」であり,oとuの二重母音である。
二重母音は,普通前の母音を伸ばして発音する(例外もあるが)。
あるいは,「私は」は,「わたしわ」と書くべきであろう。
高倉テルは,ということを言っていたのだ。
それで,佐々木さんも,ささき・けんたろーと表記していた。
で,このバレーボールは面白いと思ったのは次のところ。
全部で8時間しかないんだけど,1時間目は,バレーの目的,体育と労働の歴史,白浜町におけるバレーの歴史,準備運動,チーム作り,パス,パスゲームとある。
3時間目は,バレーはどんな組織で出来ており,おこなわれるか。試合の運営はどのようにおこなわれるか。
守備位置,審判,主将などの役割決め。コートの大きさ,試合の方法。
4時間目は,バレーボールの歴史,なかでもボールの歴史,
5時間目は,ボールの歴史の続き。
7時間目は,ボールの歴史の話,バレーボールの歴史,手の発達と生産関係(宿題)
これ,ほとんど実技がないでしょ。
佐々木さんは,前にも書いたけど,鍛える体育をやっていて,それを批判されて,あるいは自己批判をして,生活綴方を志すのが,1952年の4月。
そして,この実践記録は5月30日に書かれている。
だから,鍛える体育をやめた佐々木さんは,実技の正統的な位置づけを見いだせていなかったんだと思う。
だから,体育の授業なのに,体育実技が極端に少なく,いびつともいえる実践になっている。
で,なんでそうなったのかを考察しているときに,矢川徳光という人の『ソヴィエト教育学の展開』(1950年)の本(佐々木蔵書)を見つけた。
このなかのあるページに書き込みがしてあった。
書き込みは,総合技術教育という部分で,これをポリテフニズムというのだが,マルクスは教育の3つの側面として,知的教育,身体教育,ポリテフニズム的教育をあげた。
それで佐々木さんの書き込みは以下の通り。
「己のむかふ方向は,
○総合技術教育→方法,理論,実践。
○生活教育→ 綴方,詩を通じ,子どもたちの魂の発達。
○平和教育→ 人権擁護,生命の尊重(健康),安全,休養,疲労と回復」
矢川さんの本には,「裁縫を手わざとして教えることもできるし,材料や道具や動力などの分析と結び合わせながら,裁縫を教えることもできる。-この後者のようなものをポリテフニズム的教育という」と書かれている。
だから,バレーボールの実践は,そのままポリテフニズム的になされていたといってよい。
佐々木さんは,戦争が終わってレンパン島で10ヶ月の捕虜生活を送る。
その記録も残してあるのだが,戦争に参加した佐々木さんは,何よりも戦争反対の立場を強く表明していた。
これは久保健さんが『体育科教育』で紹介していたが,佐々木さんの実家は玩具屋さんであったが,戦争に関わるようなピストルだとか,刃物のオモチャはおいていなかったという。
だから,「紀南教育」6号に載せた佐々木さんの最初の記録は,「戦争反対」に関わる記録であった。
そして,体育は「平和教育」に位置づくのであり,繰り返すがスポーツをスポーツとして教えるという位置づけはなかった。
佐々木さんは,後に「技術主義を排す」と述べているが,体育授業で実技をやることをどのように位置づけたのだろうか。
ある意味不思議な問いだと思うが。
これは,次の機会にしたい。