体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 上野山実践を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号の上野山実践を読んで,考えたことを書きます。

上野山さんの実践は,昨年の11月号にも掲載されており,それを読んで考えたことを,12月に入ってから書きました。

そのため,書く中味が被ってしまうと思ったので,取り上げるのをやめようかとも思いました。

でも,取り上げることにしました。

なるべく被らないようにしたいと思います。

では,どうぞ。

 

今回,『たのスポ』では,5人の方がそれぞれの実践(自分史)を語っているが,うまい人選だったと思う。

丸山さんも書かれているように,「強いこだわり」がある方々だ。

特集のタイトルに引き寄せれば,「運動文化論を学ぶ,生かす,発展させる」ことを実践してきた人たちなのだ。

 

その中に,健康教育で上野山さんが登場するのに何の違和感もない。

特に,上野山さんには一昨年,その前と冬大会に出てもらったし,そのたびに丁寧な資料を用意してくださり,健康教育の取り組みについて,そして対話の授業について何度も話していただいた。

 

そして,『運動文化研究』31号にも,昨年の『たのスポ』11月号にも,今回の号にも丁寧に取り組みが書かれている。

その取り組みには,他の教科の授業では活躍できないけど,健康教育では活躍できる子どものことが書かれている。

健康教育は,「みかぐら」のようなものだ(説明しないから,意味不明かもしれません)。

 

上野山さんの書かれたものを読むと,いつも感心する。

自分の語る土俵のようなものをキチンと持っているからだ。

それは,まさに「体育同志会の健康教育」である。

前者の「体育同志会」でいえば,その歴史をふまえて今を語ることを忘れない。

後者の「健康教育」でいえば,自己責任にせずに,社会問題へ目を向けさせるというスタンスがあるということだ。

 

体育同志会は,国民大衆やクラスの中の弱者に目を向けた「批判」理論を展開しており,その批判は既存のスポーツ体制や教育体制に向けられることが多い。

しかし,健康教育はまさに生存にかかわる領域であり,スポーツ活動を含めた諸活動の土台を占める領域である。

だから,その批判の対象もスポーツ体制にとどまらず,広く資本主義企業や政策に向けられることになる。

 

かつて,丹下さんは,保健と体育を一緒にすることには反対だったという。

それが,1961年の春合宿で小学校と中学校から保健学習の必要性が提起されて,健康教育が始まったという。

なるほど,1961年というのは,58年の強制力のある指導要領が小学校で始まる年だ。

同志会も,時代の波をかぶっているのだ。

 

「加賀野の水」のことが書かれているが,僕は実はよく知らない。

先日,東京で伊藤高弘さんに聞き取りをお願いしたときに,その前に上野山さんからもたのまれて,いろいろ思い出していたという話を聞かせてもらった。

そのときに,「加賀野の水」は出てきた。

実践記録は,どちらかというと健康教育の領域でよく書かれたという話だった。

 

もう10年ぐらい前になると思うが,和歌山の白浜集会で,当時東高校の校長をされていた笠原さんに,「よきのこだま」(だったと思う)の話を映像付きで見せてもらった。

それは,白蝋病という林業でチェーンソーを使う人たちがなる病気を,題材としたものだ。

指先の感覚がなくなり,たばこの火をあてても熱くなくなるのだ。

それでも木を切れば,お金になるからやめられないのだ。

 

笠原さんは,若い頃,バレーボールばっかりだったというが,佐々木賢太郎さんの薫陶を受けて,こういう実践に取り組んだのだろう。

なにしろ,佐々木さんは,「命を守る」教育の実践者だったから。

 

ところで,僕は2月に白浜に行くのだが,何を話すんだっけ?

時間はどうだっけ?

また教えてください,狭間くん。

笠原さんの話も聞きたいですね。

 

さて先日,東京で60周年記念集会があったときに,村上修さんが,70年代のスポーツ権が論議される頃の話をしてくれた。

僕もたまたま『たのスポ』の原稿に書いていたこともあって,よくわかった。

つまり,あの頃は,高度経済成長も終わりにさしかかるわけだが,ちょうど,70年安保,公害訴訟,杉本判決などがでて,住民の自治や権利意識にみんなが敏感になってきた頃だ。

だから,革新自治体も出てきたわけで,教育研究運動も盛んになり,水俣病などへの関心も高まってきた頃になるのだろう。

 

しかし,80年代に入って,国も経済活動を活発にすることで批判をそらし,バブル経済で多くの人が自分の利益を優先的に配慮して,つながることをやめ,自己責任体制,道徳体制ができていく。

上野山さんも書かれているが,今の時代は教師にとって閉塞感が漂っている。

それを吹き飛ばすためには,社会のおかしさに目を向ける必要があり,そのために実践をやり,研究運動をやる必要がある。

そのためにどうしたらいいのか?

 

「60年前の課題が今でも新鮮に思えるのは,体育同志会が戦前の軍国教育の反省から民主教育を創造し,この60年間反動化を押し返して研究運動を発展させてきたからだと思います」(33頁)。

 

だから,われわれは自分は何ものなのかを考える必要があり,そのために先達が何を大切にして,何を発展させようとしてきたのかを,時々ふり返ってみることが大事なような気がする。

今とは時代が違うとはいわずに。

 

 

 

 

 

 

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