体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』11月号を読む 石垣論考を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』の2014年11月号の石垣雅也論考を読みます。

論考のタイトルは「民主主義体験としての『つながり』」です。

これを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

石垣さんは,滋賀教科研という肩書きになっている。

体育同志会の人ではないようだ。

今の若い人たちは,いろいろなつながりを持っている。

いろいろなところへ出かけていって,それぞれにつながっている。

そういう意味では,えらいと思う。

 

僕は全然出て行かない。

飲み屋にもいかない。

基本,家で飲み食いするのが好きだし,研究会もあんまりいかない。

ただ,行くとやっぱり行ってよかったと思うことの方が多い。

それは,出かけて云って話を聞くだけで,ブログのネタになりそうだと頭が回転するからだ。

単に聞くのではなく,実践する,文章にアウトプットする,ということがあるだけで,聞く構えが違ってくるのだろう。

 

話は逸れるが,今,この時期になってもまだうちの4ゼミ生には,自分の頭で考えて卒論を構想する子たちがいる。

褒めているのではない。

だから,すごい這い回り方をする。

いつも云うのだが,「手持ちのさびたナイフを捨てて,切れ味のよいナイフを手に入れなさい」と。

それが,先行研究だとか,その手の研究をしている人に訊くだとか,まだ自分にはない見方や考え方を手にするということだ。

そういった対象的な思考を面倒がって,「自ら考える」と言いたげに自分の水準で這い回っていて,抜け出せないでいる。

 

話を戻すと,石垣論考を読むと,前半は子どもの様子が現象面と実体面で語られる。

そこでは,他の教師や著作などから,今の子どもをどのように捉えるのか,どのように接するのかを学び,自分が接するときの仮説を立てている。

新たな見方や考え方に出会い,自分の経験とすりあわせて,その上でこれまでとは違う切れ味のいいナイフを手に入れることができるのだ。

 

論考は次に,「つながり」の基調をつくるために,作文と学級通信に取り組むということが書かれている。

それは,偶発的な出来事からつながりづくりを展開していくという「行き当たりばったり」な展開ではなく,意図的に計画的に用意されることも重要だからだ。

 

僕は,全生研の先生方の実践記録を読んでいると,班づくりなどで「いいなあ」「すごいなあ」と思うことが多い。

もめ事がチャンスのように捉えられているし,先生の介入の仕方も工夫がされている。

というか,子どもたちの関係づくりに,基本的に直接介入はしない(と思う)。

そして,全生研の場合,偶発的な出来事が積み重ねられることで,子どもたちからわき出てくる本物のつながりへと進んでいくように感じるのだ。

そんなにうまくいったという事例ばかりではないけどね。

 

で,2011年の中間研究集会のときに,全生研から,もと同僚の船越勝さんに来てもらい,話をしてもらったが,やっぱり体育同志会とは違うんだよなと思った。

彼らが生活指導というとき,それは生徒指導に対置して用いられる。

何かあったら,生徒を指導するのではなく,生徒をめぐる人間関係=生活を指導すると捉えるのだ。

だから,ずばりつながりをつくる(ための仕掛けをつくる)と云っていいだろう(ダメ?)。

 

また,作文というか生活綴方もまた,つながりをつくるためになされるのだ。

和歌山の紀南作文教育研究会(紀南作教)では,「共通の運命観を育てる」として,子どもたちをバラバラにしないことが目標に掲げられた。

綴方といえば,「一人の喜びをみんなの喜びに,一人の悲しみをみんなの悲しみに」だ。

生活綴方もまた,もともと生活指導の研究会だったからね(経緯が複雑なので詳細は省略)。

 

でも,体育同志会はつながりをつくるために体育をやるのではなく,やった結果としてつながると建前上は考えるのだ。

これについては,今は同志会でも人によって違うだろう。

僕は,つながりをつくるためにやるという道徳くさい体育も好きだし,自分の実践もそうなような気がする。

 

どっちにしても,ボール運動や球技はチームで行うため,つながらざるを得ない。

それは集団づくりというよりは,チーム作りなのだが。

だから,運動文化という素材のなかの何を取りだして子どもたちにぶつけることで,「つながるのか」「バラバラでいいのか」という問いへと転化するのかを考える。

そして,そこを教科内容として子どもたちと追求するのだ。

ちょっと話が抽象的になってきた。

 

石垣さんは,川渕さんのフラフト実践を取り上げている。そして,自身はリレー実践に取り組んだことが書かれている。

川渕さんの実践は,先日も紹介した(教育のつどい大阪2014の話2-川渕実践を聞く-)が,彼女自身はこれを読んでどう思うのだろう。

石垣さんの捉えが間違っていると云うことではない。

彼女自身に,生活課題と教材の学習にはこだわりが感じられたし,そのときのブログではそのことが書ききれなかったから。

 

リレーも実は球技と同じでチーム作りが必要になる。

これは,その後の成合さんの実践でも語られるが,だから集団づくりではなくチーム作りが重要な位置を占めることになる(班編制のことではない)。

そして,石垣さんや川渕さんたちにお願いしたいのは,「たのしい体育・スポーツ」2013年11月号で制野さんが紹介した「並走リレー」をやってみてほしいと思うのだ。

まだ実践報告はされていない。

つながりを考えるうえで,この考え方は本当に大切だと思うのだ。

 

「おわりに」の部分は教師の労働条件に触れている。

教師の多忙から,「教材研究という教師の中核をなす仕事が,縁辺化され,さらには孤立化されている」ことが現実にあり,そのことが問題なのだ。

 

ここで,いろいろなことを考えさせられた(というか,勝手に考えた)。

つまり,「労働実態の過酷さから目をそらしてはいけない」と書いているが,これは労働運動に関わっていると思うが,そうとも書かれていない。

先日の「小1で40人学級に戻せ」という財務省の意見は,条件を悪くするものだが,それら労働条件をよくしていくためには,教師が声を上げる組合的な運動が必要になる。

 

それはそうなのだが,国に対する教育条件の整備要求と同時に,もう少し現実レベルでの条件づくりもまたフォーカスされてよいと思う。

以前,大田堯さんの教育実践記録論を紹介した。

そのときに,以下のことが書かれていた(「教師の実践記録について」(『教育』1954年7月臨時増刊号))。

 

「すなおに自己の実践をみつめて,自分の実践者としての発想を正しく守るには,何よりも自分を取り巻く周囲の人間関係がつくりかえられることが前提になるのではないかと思う」(161頁)。

 

「そういうものを育てるための土壌を,自分たちの力によって用意しなくてはなるまい。つまり同じ職場の実践者としての同僚との人間関係のつくりなおしをやる必要がおこるだろう」(161頁)。

 

要するに,学校が職制によって上から管理されるような体制であったり,教師が学級王国のボスとして君臨するような縦社会の人間関係では,ダメだといことだ。

 

つまり,子どもがつながることを求めるのであれば,その条件が厳しいものであればあるほど,教師たちがつながらなければならないと云うことなのだ。

教師の中に「民主主義への諦め」があれば,子どもの中に作り出す「民主主義体験としての『つながり』」もまた脆弱なものにならざるを得ない。

 

だから,子どもをつなげようとする教師は,自らがつながっていかないといけないのかもしれない。

それはきついことかもしれない。

つながりを分断するような発言をする勢力とつながらないといけないのだから。

 

でも,ここが肝のような気がする。

「ところで,おまえはどうなのだ?」

「いやあ。僕は家で飲んでいるのが好きですから」

「そんなことではダメ」

「ギャフン」

 

 

 

 

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