体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

若者が声を上げないのは道徳教育の成果?

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,新聞記事や雑誌などを眺めていたら,いろいろなことがつながってきたので,そのことを書きたいと思います。

キーワードは,政治,道徳,若者です。

では,どうぞ。

 

僕はEvernoteというアプリを利用している。

これは,iPhoneiPad,そして使うすべてのPCに入れてあって,同期させている。

これは,一種のクラウドのようなものである。

iPhoneiPadなどはうまく使いこなしていないのだが,そう思う理由に,それらではワープロ機能を使っていないことがある。

結局,ファイルという考え方がない(と思う)からだろう。

 

しかし,このEvernoteは,一種のファイルのようなものであり,メモ帳である。

しかも,ノートに用事を書いていくのだが,執筆中の原稿をコピペしておけば,新幹線の中でも仕事ができる。

さらに,ノートには写真を撮って保存したり,PDFファイルを保存しておくこともできるし,リマインダー機能を使うこともできる。

リマインダーは,メールと連携させることによって,朝1番にお知らせメールが届く。

 

で,このアプリには,新聞記事などのスクラップが写真として入れてある。

それを時々見たりする。

1週間ほど前の水曜日には,毎日新聞山田昌弘さんが「意義唱えぬ日本の若者」と題するコラムを投稿していた(10月22日)。

コラムの内容は次のようだ。

 

香港では,普通選挙を求める民主化運動が活発化し,学生を中心とした若者が政府庁舎前の道路で座り込みを続けている。

このことに対して,「香港の将来を担う若者たちが,自分たちの社会を自由で民主的なものに変えていきたいという意思を言葉や行動ではっきり示したことは,香港の将来にとって大きな意味を持つことだと感じている」と述べる。

 

翻って日本の若者の場合は対照的だという。

かつて,授業料値上げ反対のストライキをやったという昔の自慢話に対して,「そんなことをして,就職にひびかないんですか?」と学生。

「一流大学から一流企業を蹴ってなぜ不安定な政治家を目指すのか」と彼女に言われたという学生。

 

社会に異議を申し立てすることは,「自分にとって不利益になる恐れがあるから」と控える。

「社会現象が変えられるかもしれない」という問いに対する日本の若者の意識は,調査国(7カ国)中最低の30%でしかないという。

 

かつての日本というか,世界的な規模で,若者が声を上げたのが1968年とされている。

たまたま僕が生まれた年である。

この年は,団塊の世代が20歳になる頃である。

いわゆる全共闘世代でもあるが,過激な行動も含めて,でも若者が声を上げていた。

先日も法学部の先生と話をしていたら,大学時代は古典を読んだり,政党の勉強会があったりして出ていたという。

もう少し若いが,石川康宏さんも『若者よ,マルクスを読もうⅡ』で,同じようなことを語っていた。

体育同志会でも,平田さんが「あの当時(70年代の後半)は,社会が変えられると本気で思っていた」と云っていた。

 

これを嘆く声も多く,今日(28日)の毎日新聞では,全く関係はないが,若者の低投票率に対して,「主権者教育を進めよう」という特集記事があった。

論説委員与良正男さんの記事である。

これは,夏の参院選投票率が60代で67%だったのに対して,20代は33%だったこと,国民投票法が改正して4年後からは18歳以上が国民投票ができるようになったことが関係している。

 

記事では,若者だって頑張っている取り組みを紹介する。

「未来国会2014」なるものでは,大学生がチームを作って,30年後の日本の国家ビジョンを考えるという試みだという。

 

原発問題や,集団的自衛権問題では,若者も含めた多くの人がデモに参加したと云うし,ヘイトスピーチに対する「カウンター」行動にも若者も参加していると聞く。

 

ということは,ここでも二極化が起こっているということなのだろう。

匿名だったら,ネットウヨと云われる人たちもきっと多いのだろう。

でもフェアじゃないよね。

石原さんとか,橋本さんあたりの過激な発言に対して,尻馬に乗るような発言をするというわけだから。

普通に云ったらちょっとおかしいんじゃないの?とか思うことは,匿名希望になる。

ネットいじめもそうかもしれない。

 

でも,少し考えてみればわかることだが,これは道徳教育のおかげなんだよね。

僕はときどき小学校に行く。

恒吉遼子さんの『人間形成の日米比較』という本にも書いてあるが,日本の小学校の教室は,スローガンだらけである。

「仲良く,元気に,精一杯」とか,「今週の目標」とか,すごく道徳的なのだ。

そのことは全然否定しない。

 

道徳とは, 1879年に「教学聖旨」にて,仁義忠孝の道徳を教えることが文部省より云われるが,これは西洋的な啓蒙思想に影響を受けた自由民権運動を恐れたために出される。

また,特権を奪われた士族の内乱,反乱を抑えるために道徳が重視される。

そして,翌1880年に「修身」が筆頭教科化となる。

そして,教育勅語(1890)が出される。

 

戦後は,修身が廃止になったが,日本が独立する1950年代に道徳の時間が設置される。

そこでは,「時の政府(国家)が定めた方針に反対することなく,国民一体となって付き従う心性」が求められることになるのだ。

最近は憲法9条の改正,グローバル社会への邁進という政府(国家)がやりたいことのために,国民に「滅私奉公」を要求。格差社会への不平不満を道徳や愛国心の強調によって覆い隠そうという意図。

それを支持する愚民化(ルンペンプロレタリアート)政策。

 

道徳教育に関わっては,例えば松下良平さんの本『道徳教育はホントに道徳的か?』(日本図書センター,2012)が参考になる。

 

松下さんは,道徳は反利己主義・自己犠牲の側面と,もう一つ,自己愛の拡張による側面があるにもかかわらず,日本の道徳教育はもっぱら,前者の自己犠牲を求めているという。

 

「自分自身の考えを主張して人とぶつかることを諫め,自分の至らなさや過ちを責めることを進める道徳です。あるいは批判的に考えたり,自分独自の考えに従ったりすることを自分勝手として咎め,外から提示された教えや規範をうやうやしく受け入れることをよしとする道徳」(松下,96頁)。

 

道徳教育で子どもたちが学んでいるのは,「資料(副読本)がよしとしている判断や行為がなぜ道徳的なのかを考える時間になります。そのとき,資料がよしとする“道徳”に納得できない子どもたちにとっては,教師が評価してくれるようにもっともらしい理由をでっち上げる時間」になる。あるいは,「先生が想定している“答え”を予想し、それを『当てる』ことを楽しむ一種のゲームになります」(68-69頁)。

 

 

日本の若者が政治に無関心で,声を上げないのは,たとえ政治によって自分が不利になったとしても,公に自分の意見を表明せずに,外から示された規範を恭しく受け取るからだ。

なるほど,政治家にとって,日本の道徳教育は成功しているというわけだ。

 そして,反道徳的な声を匿名希望であげたり,見えないところでいじめを行うのもこれもまた道徳教育の成果なのではないのか。

面従腹背だ。

 

と,今日(29日)の毎日新聞の水脈にも同じようなことが書かれていた。

なぜ子どもに「いい子でいること」を求めるのか。

 

政府は道徳の教科化を行うことでこれ以上何を目指そうとしているのだろうか。

道徳が悪いとか,道徳教育そのものを否定するつもりはない。

ただ,やればやるほど,表と裏がはっきりするだけのような気もするが。

それに,偽装問題も,今はやりの政治とカネの問題も若者の問題ではない。

というか,それらも道徳教育の成果といえるのではないか。

 

社会の側の問題も,自分の問題や自己責任,あるいは家族でなんとかしろと云われるわけだから,弱いものはどんどん追い込まれていく。

こうして世の中が悪くなって(悪くしているのは大人),ますます子どもの道徳が強化されるという負のスパイラルになるのだろう。

 

 

 

 

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