体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「貧困と学力」に寄せて-大阪府の場合1

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,一昨日のブログに書いた教職ゼミの研究テーマ「貧困と学力」に関わらせて書きます。

途中まで書いて,ここに戻ってきましたが,そこまで行きませんでした。

なので,タイトルを変えようかと思いましたが,続きにするということで,「1」をつけました。

 

昨日は,健康診断の話を書きました。

体育・スポーツではなく,保健という感じでしょうか。

なんだか,脈絡はないのですが,毎日ネタを振り絞るのが大変なので,そこは勘弁してください。

では,どうぞ。

 

一昨日は,「貧困と学力」について学生の発表をもとに,考えたことを書いた。

僕としては,苅谷剛彦さんの「大衆教育社会」という考えはわかるけど,僕のような左翼からすれば,「そうはいってもなあ」と歯切れが悪くなる。

やっぱり,みんなが賢くなってほしいし,みんなにチャンスがあるんだということを示してあげたい。

 

問題は,社会に出るということが,ほぼイコール企業に就職するということにある。もっと多様な働き方というか,生き方があってもいいのだが,とにかくグローバル化のおかげか,偏差値か給料で格付けされてしまうのだ。

だから,必然的に競争に参加することになる。

ブータンじゃないけど,幸福度と経済成長率は比例しないのに。

 

話は変わるけど,「おっさんひとり飯」というブログがある。

この高野さんという人は,京都に住んでいて自炊しているのだが,それをブログに書いていて,それが本にもなっているのだ。

で,毎晩のように飲んで,外に飲み歩いているようだが,この人の生き方はなかなか面白いと思う。

 

というか,ちょっと前までBSで「土曜日は寅さんの日」ってやっていたでしょ。

それをみて,この高野のおっさんと寅さんがオーバーラップしたのだ。

今の僕にはできないけど,そして,まったくうらやましいわけではないけど,そういう生活もいいなあと思ったりすることもなくもない。

ここでも歯切れが悪い。

 

この人はそれなりの学歴と職歴があったけど,やめてフリーで文章を書いたりしているという。

で,何が言いたいかというと,社会に出る=企業に勤めるということについてだ。

うちの大学で(よそは知らない)教職を目指す学生の少なくない人が,「一度社会に出てから教員になりたいです」という。

その社会とは,企業のことだが,なぜそんなに狭く限定するのかは不思議。

というのも,教員になるのだって社会に出ることだし,自営だって,公務員だって何だって社会に出ることなのだ。

 

彼らは,「教員は常識がない」という。

「そうか?」

何と比べて常識がないのだろうか。

それはもちろん,社会人=企業人と比べてだろうが,企業人の常識で教育をされては困るのだ。

もちろん,教員も職業集団なので,他の職業とは違う特徴を有することは間違いないだろう。

それが常識がないとなるのかはわからないが,いかなることを指して常識がないと云っているのだろう。

 

とここまで書いていて,自分も教員であることに気づいた。

たしかに,ずれているところがある。

が,大学の先生は,ずれているからやってられるところもある。

だから,常識の座標を作ろうと思っても,X軸とY軸を交差させて0となる点がまず作れないだろうな。

そんな話がしたいわけではない。

企業人の常識で教育をされては困るという話だ。

 

9月18日に経済学者の宇沢弘文さんが亡くなった。

数日前の朝刊と夕刊に,この人の生前の業績や人となりが書かれていた。

すごいヒゲづらのおじいさんが,半パンでジョギングしているのだ。

でも,火曜日に廃品回収に出してしまって新聞はない。

うる覚えであるが,とにかく新自由主義を嫌っていたようだ。

自分もシカゴ大学にいたが,シカゴ学派が嫌いでやめて東大にいったという。

でも,新自由主義が嫌いなだけで,シカゴ学派の人とはつきあいがあったともいう。

 

で,この宇沢さんの本は僕も持っている。

「好きになる数学入門1 方程式を解く」岩波書店

「なんで~」,でしょ。

それと,「社会的共通資本」岩波新書

 

この社会的共通資本(Social Common Capital)というのは,ネットを見てみると,宇沢さんのPPTのスライドを見ることができる。

ググってみてください。

 

社会的共通資本とは,「ゆたかな経済生活を営み,すぐれた文化を展開し,人間的に魅力ある社会を持続的,安定的に維持することを可能に するような自然環境や社会的装置」のことである。

 

「社会全体とっての共通の財産であり,それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門化集団により,専門的知見と 職業的倫理観にもとづき管理,運営される」

 

そして,3つの類型があるという。

(1) 自然環境: 山,森林,川,湖沼,湿地帯,海洋,水,土壌,大気

(2) 社会的インフラストラクチャー : 道路,橋,鉄道,上・下水道,電力・ガス
(3) 制度資本: 教育,医療,金融,司法,文化

 

ここに教育も入っているのだ。

企業人の経営感覚(金儲け感覚)で管理してはいけないということだ。

安倍さんにも読んでほしいものだ。

教育はサービスだとか,塾に学べだとか,おかしな論理が横行しているが,教育は未来に対する責任なのだ。

できる子どももできない子どもも,意欲のある子もない子もみんなまとめて面倒見て,引き上げるのが学校教育なのに,企業の論理でやられたらどうなるか考えてみればよい。

 

宇沢さんは,「社会的共通資本としての教育」についても書いている。

教育とは,「一人一人の子どもがもっている多様な先天的,後天的資質をできるだけ生かし,その能力をできるだけ伸ばし,発展させ,実り多い,幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長することを助けること」である。

金儲けの話はひとつも出てこない。

 

「このとき,ある特定の国家的,宗教的,人種的,階級的,経済的イデオロギーにもとづいて子どもを教育することがあってはならない」

これは重要でしょ。

今のように,政権や首長の思惑に従って,教育を操作してはいけないのだ。

専門家集団に任せておけ。

 

さらに,制度としては,「できるだけひろく,多様な社会的,経済的,文化的背景をもった子どもたちが一緒学び,遊べる場所でおこなわれることが望ましい」のだ。

いうことなし。

 

ここまで書いて,冒頭に戻ってタイトルと紹介文があっていないことに気づいて,冒頭部分にいい訳を加筆した。

 

もう,字数がないのでやめるが(本来は無限にあるのだが),最後に繰り返し云われていることであるが,大阪の例を1つ。

 

昨年度,大阪では民間校長が11名採用された。

橋本市長の公約であった。

900人を超える応募の中から選ばれたエリート校長だ。

そのうち,昨年度6名がセクハラ,パワハラ,勝手に休むなどで,厳重注意を含めた処分を受けた。

すでに退職した人もいる。

 

今年に入っても,大阪府では,4月に赴任した民間校長が,5月にスーパーで万引きしたという。

別の校長も,前の会社と関わっていたとして懲戒処分を受けている。

市の校長が,お金を持ち出したということも報道されている。

 

その人の適正の問題もあるかもしれないが,900人から選ばれた11名中6名が処分をされて,それが社会人=企業人の常識だとすればいったいなんなんだろう。

 

リクルートから杉並区の民間校長になった藤原和博さんは,和田中学校でいろいろな改革をやった。

とくに,地域本部なるものを作って,地域の人々を学校に招き入れたことは評価に値する。

塾やスポーツ教室を学校に入れたことは賛否両論あったが。

 

それを念頭に置いてのことだったのだろうが,藤原さんが特別だったのだろう。

ということで,教員は専門家職能集団なのだから,少々面白い人がいてもいいではないか。

ということが書きたかったわけではないが,ワープロを打つ手がこういうストーリーにしてしまったと云うことは,やはり,こういうことが書きたかったのだろう。

 

明日は,貧困と学力について,というか家庭環境と学力についての学生の調査を紹介します(たぶん)。

 

 

 

 

 

 

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