教職ゼミでの話-貧困と学力について
こんにちは。石田智巳です。
前々回のブログでは,「日本の教育はそんなに悪いのか」と題して,思うことを書きました。
そこでは,学生が「各国の教育システムに習う次世代日本教育システム」という仮のタイトルで,日本の教育システムの不安定さに対して,諸外国のシステムに学べるところを学ぼうという中間発表をしました。
それに対して,いろいろ考えることがあったので,学生たちには一昨日のブログに書いたようなことを述べておきました。
今日の内容は,その彼らと同じ日に行われた別のグループの発表を聞いて考えたことです。
では,どうぞ。
2007年頃から,貧困や格差という言葉が人口に膾炙するようになった。
2006年には,このブログでも取り上げた山田昌弘氏による「格差社会」がユーキャンの流行語大賞に選ばれた。
そして,翌年には,山田さんによる『希望格差社会』なる本が出された。
また,同時に,「子どもと貧困」「子どもの貧困」をテーマとした本が出されたり,新聞の特集などが組まれたりもした。
そのため,今の学生たちは,(自分を除いて)子どもの学力が親の収入や学歴などに影響を受けていることはわかっているようだ。
ただ,それがどのようなものなのかとなると,よくわからないところがあるらしい。
だって,彼らがこの大学に来ているのは,多くの場合人より裕福だからだけど,それを認めると自分が人よりもしてきたと思っている努力が,実は自分のものではなくて,家庭環境によるものだったことを認めることになるから。
それが,研究の背景や動機に表れている。
彼ら曰く,「収入と学歴はどういった関係性があるのか」「親の学歴と子どもの学力にはどのような関係があるのか」「家庭の学習環境によって,どのように変化していくのか」。
これらは,直接調べるというよりは,明らかにされた1次資料やそれをまとめた本などの文献を読んで勉強するということになるだろう。
それでは,単なるレポートになるので,彼らのオリジナリティがほしいところ。
すると,「教師という立場でどのように改善,介入していけるのか」という彼らなりの足で稼ぐテーマを持ってきた。
これにどうやってアプローチするのかは別問題だが。
次に,これから何をやろうとするのかが語られた。
彼らは,学歴の格差,家庭環境と学歴,公費負担の問題などを調べることにしているという。
そうだね。
頭で考えていても,何も進まないから,資料や文献を読み込むという対象的な思考をするなかで,頭が回転したり,何かに引っかかったり,仮説のようなものが生まれたりするのを待つしかない。
この問題は,結構多くの調査がなされているので,どこまでアプローチできるのかが問われることになる。
そして,貧困,格差と学力の実態を知った上で,彼らに何ができるのか。
大阪大学の志水宏吉さんの『力のある学校』を読んだか,ながめたようだ。
報告はここまで。
彼らの発表に対して,もう少し整理が必要であることを述べる。
貧困や階層格差が,学力の格差を生むのだから,貧困をなくそうとか,格差をなくそうということはできる。
そのために,国や自治体レベルの政治に訴えることもできる。
もう一つ上のレベルでも取り組みはある。
それは,一昨年(2012年)の9月に国連の国際人権規約の留保を撤回して,高等学校や,大学(高等教育)の無償化へと進もうとしたことだ。
これは詳しくは述べないが,そういう例もある。
しかし,そのこととは別に,自治体レベルの教育条件に訴えることもできる。
そして,学校でどんな取り組みをするのかを考えることもできる。
さらには,一人の教師として(同僚と連帯して)どう立ち向かうのかと考えることもできる。
教育条件に関わっては,貧困に対する教育条件か,それとも学力保障に関わる教育条件なのかも考える必要がある。
これらのうちの,どのレベルの話をしようとしているのか。
ここを明確にした上で話を進めないと,文献というものは読めば読むほど,さらに読まなければならないということが起こる。
そして,自分のやりたいことに辿り着く前に時間切れになるような気がする。
だから,解くべき問題やどこにどのようにアプローチするのかをまず決めて,それに必要な基礎知識をその周辺に配置するだとか,考える必要があるのだ。
先に『希望格差社会』について述べたが,これは,格差社会を希望するのではなく,格差社会において,上と下,あるいは勝ち組と負け組で,持てる希望に格差があるということである。
このような言い方は,どこまでさかのぼることができるのかはわからないが,やはり苅谷武彦さんの「インセンティブ・ディバイド」に行き着く。
インセンティブ・ディバイドは,意欲の格差のことである。
意欲の格差もまた,親の職業や収入,あるいは母親の学歴などによって生じているという。
希望格差社会にしても,インセンティブ・ディバイドにしても,構造主義的に見れば,あるいはマルクスの上部構造と下部構造的に見れば,個人の意識は個人に属するというよりも,経済状態によって違うということをいっているわけである。
だから,子どもや親に「早寝早起き朝ご飯を!」いったところで,解決できる家庭とでない家庭があるのだ。
昨日(10月22日)の毎日新聞の夕刊のコラムにも,似たようなことが書かれていた。
記事は,ノーベル平和賞を受賞したマララさんの話と関わらせた話だ。
日本にも上の述べてきたような貧困のため,安心して勉強ができない子どもがいる。
朝ご飯を食べられずに来る子どもを見かね,「おにぎりなどを用意する小中学校の先生たちがいる」という。
その自治体は,「先生がポケットマネーで出していた食費を公費でまかなう取り組みをはじめた」。
しかし,施策を公に発表するとなると,「自分も食べたい」という子どもも殺到するかもしれないし,他の保護者から「親の責任」だとされるおそれもあり,取り組みは模索中だという。
「どうして自分たちの払った税金で,他の家の子どもを食べさせないといけないのだ」となるのだろう。
記者は,「親には事情が」あること,「おなかを空かせたまま机に向かう子には何の罪もない」といい,「国内の現状も訴えたい」と結ぶ。
以前,給食で残ったパンを冷凍しておいて,朝食べさせるような例も聞いたことがある。
しかし,それだって衛生面からすれば,大っぴらにはできないだろう。
でも,そういう個人の取り組みを,行政のものにしていくその運動が大切なのだと思う。
自分が何かあったときには,支えてもらうことになる。
そのために,今,他人を支えられるのかどうか。
こういう意識や行動は大切だと思う。
ところで,苅谷さんの『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書,1995)は,教育における階層格差の問題を暴き出した作品である。
この作品は,格差によってスタートラインが違うのに,あたかも平等に競争をさせられていることへの警鐘をならす。
と同時に,「大衆教育社会」という誰もが等しく学歴を身につけることをよしとする社会にも,警鐘を鳴らす。
本来,学力競争をしないでもよかった人たちもが,競争しなくてはならなくなったからだ。
ゆとり教育の理念にもそのことはあった。
つまり,学力一元的な社会ではなく,特技があれば,それを伸ばしていけばいいという発想だ。
しかし,社会は変わらないのに,理念だけを変えてもうまくいくはずはなかった。
恐れるのは,貧困そのものが解決されたとしても,そのことによってみんなが学力競争社会に放り込まれることだ。
そして,結局,同一尺度で,勝った負けたと格づけられ,ネオ自己責任論が登場することになるかもしれない。
「言い訳無用」とされるわけだ。
実は,こっちの方もまた心配なのだ。
が,ひとまずは貧困や格差に立ち向かう,先生や学校の取り組みがもっとフォーカスされてよいと思う。