「美しいリレー」の授業の話
こんにちは。石田智巳です。
今日は,リレーの授業の話です。
ただのリレーではなく,「美しいリレー」の授業の話です。
では,どうぞ。
初等体育という授業では,リレーをやることにしている。
これは,学生にとって教材づくりの考え方がわかりやすく,達成感も得られやすいからだ。
このための仕込みとして,実技オリエンテーションの時間に,バスケットボールシュート調査と50m走の記録をはかっておく。
その50mの記録をもとに,二人のリレーチームを作って,そこでバトンパスによるタイム短縮を図るのだ。
技術的な目標は,二人の50m走のタイムの平均よりも速くリレーすることである。
ただし,授業をする上でいろいろ整わないこともある。
まず,体育館でやらないといけないことだ。
50mの曲線走になる。
しかも,以前は第一体育館という大きな体育館でやっていたが,今はやや小さな体育館に統合されたのだ。
そのため,走路のカーブがきつい。
そして,30mの一番カーブがきついところでバトンパスになる。
しかも,男子はまだスピードのピークが来ない地点なのだ。
そのため,新体育館になって,達成率が低くなったような気がしていた。
さらに,リレーには1時間しか時間を取っていない。
1時間と云っても90分ある。
後述するが,これが恐ろしいことを誘発するのだ。
でも,条件のせいにするのではなく,何らかの打開策を考えようとしていた。
そのときに,『たのしい体育・スポーツ』2013年11月号の制野俊弘さんの「『美しいリレー』とは何か-もう一つのリレー学習」を読んだ。
「これだっ!」と思った。
そのため,次のリレーではこれを試してみようと思ったのだ。
まずは,簡単に制野さんの文章を紹介したい。
制野さんは,駅伝でたすきをつなぐそのことに感動を覚えるという。
単なるパスではなく,そこに込められた思いや願いを読み取るからだ。
だから,つなぐという視点からリレーの学習を捉え直すという。
制野さんはもともと,バトンパスの技術に着目して二人のリレーを展開していた。
そして,それは『体育科教育』2004年1月の創刊50周年記念増刊号に収録されている。
なお,ここには,瀬見さん,大津さん,江原さんという体育同志会の実践家も名を連ねる。
しかし,制野さんは,それまでやっていた競技としてのリレーに疑問を抱く。
そして,2007年の冬大会では,「競技性とカーニバル性」という二つの側面に注目して,合意形成を中心とした授業を行う。
例によって,制野さんは近代スポーツ的な競争や合理性を認めつつも,その批判を行う。
それは,もともと制野さんに子どもの生活に意味のある実践をさせたいという思いがあったからだろうが,震災後は特にその思いが強くなっているように思う。
もっとプリミティブなレベルで,人間と人間がじゃれ合ったり,身体感覚を感じ合うことを要求しているように思われる。
そんな制野さんは,宮城で先行的に行われた2つのリレー実践に着目する。
それは,「つなぐ」という行為そのものの価値を問う実践,人間的な共同・協同行為として意味づけをしている実践である。
1つは,鈴木・熊谷氏の「肩タッチリレー」であり,もう一つは松田氏による「『からだ』で感じる授業」である。
後者は「声をかけないバトンパス」が課題だ。
いずれも,自分の内面,身体感覚やその変化などがテーマとなる。
そして,「バトンパスの成否や記録・勝敗といった客観的データに意義を見出す実践(同志会もこれに含まれる)とは明らかに一線を画している」という(22頁)。
ここにも,制野さん流が表れている。
すなわち,近代スポーツ的価値と別の価値とが二項対立となっている。
こうして,これら先行する2つの実践に学びながら,制野さんは「並走リレー」を発想する。
並走リレーとは,バトンパスの地点をまさに点とするのではなく,両者のスピードが一致した地点で,しばらく並走して「共鳴」や「共振」を感じながら大切なものをパスするという考え方だ。
これは,提案であるので,昨年の秋の時点では,実際にここに示されている構想でやったわけではない(と思う)。
で,僕の授業である。
残念ながら,制野さんのそんな深遠な思いはなく,まさに技術美,合理性という近代スポーツが要求するバトンパスを授業の目標としている。
そこは僕の中では変わらない。
一定に枠づけられた中で,自分たちの身体感覚を研ぎ澄ますと考えるのだ(とはいえ,1時間しかないけどね)。
授業は,最初に理屈を話した後,ウォーミングアップからジョグ,WS,短めのスタートダッシュを行う。
ここで大切にしているのは,走るそのこともではあるが,合図があったら(なるべく)一定の反応が得られるようにすることだ。
野球をやっている学生は,「前に来る足に8割,後ろの足に2割体重をかけた状態で,腰を落として,合図と同時に後ろの足で蹴る」という。
それをみんなに伝える。
次に,「ゴーマーク鬼ごっこ」。
体育同志会のリレー実践の基本だ。
やり方は,2つのペアを1つのグループにして,1つのペアがやっているときは,もう一つのペアがゴーのかけ声と2走のスタートのタイミング,タッチの位置を見て伝えるという形。
ここで僕の教材解釈の失敗があり,ボタンの掛け違えが始まる。
その後,バトンパスの練習。
最初はジョグで行う。
これも,結構難しい。
バトンを渡す姿勢のまま走る1走。
バトンをもらう姿勢のママ走る2走。
「ハイ」でバトンを渡しにいき,2走の手が出て来たときには空振りして失敗となる。
これは,「ハイ」→「手が出る」→「パス」なのだが,「ハイ」でもうバトンが出ている。
自分中心になりがちなのだ。
こうして,再度ゴーマークを使った全力でのバトンパスの練習。
そして,本番。
アップからここまで1時間程度。
僕が何度も云ったのが,「やり過ぎるな」ということ。
でも,ダメだった。
彼ら彼女らは,真面目にひたすら繰り返していたのだ。
足もボロボロになった状態で本番。
本番は曲線走で,練習とは違う場になる。
そして,実際のバトンパスを見てみると,ほとんどが点でのパス。
うまくいったところは,結果的にちょっと並走しているように見える。
そこだけ,美しいが,あとは美しくなかった。
さて,結果である。
12組が走ったが,目標タイムを切ったのは何と4組だけ。
初等体育では,例年半数以上が目標を達成する。
もっとも,2回目に挑戦していいと云ったものの,女子はほとんどやらなかった。
本番前に足はボロボロだった。
ある子は,ゴール前に減速した。
総括である。
カーブのきつい曲線での50走。練習は直線走。
これは,物理的条件として仕方がない。
次に,提示した課題が多いということ。
いつもは,ゴーマークの地点を探すことと,バトンの受け渡しの2つが課題(それでも多いかもしれない)。
それに加えて,今回は並走を提案した。
しかし,学生からすれば,その意味がわからずに,とりあえず並走はしたものの,本番では,点のパスをしていた。
だから,並走の意味がわかって,それに向けた学習の配列が必要だった。
そして,そのためには,バトンを渡すという課題ではなく,むしろ2走が1走のうしろをぴったりとひっついて走り,ある地点で肩タッチでもよかったと思う。
そして,1走の人には,なぜその瞬間にタッチをしたのかを後で語ってもらうとか。
あるいは,声をかけないバトンパスでもいい。
そして,2走の人には,なぜそのときに手を出したのかを後で語ってもらうとか。
いや,パスは次の課題だろうか。
並走の意味は,いろいろ考えられるが,とりあえずはスピード曲線的な意味で捉えたいところ。
そして,並走のためには,ギリギリパスの地点を探すのではなく,少し余裕を持って追いついてから並走するという観点で,ゴーマークの地点を探さなければならないのだ。
ここに改良の余地あり。
そして,何よりも,練習の回数を制限して,集中度を高めていかないと足が持たない。
という後期に向けた課題がたくさん見つかった。
でも,やはりせめてもう少し長い距離で,しかも直線走でやりたいところ。
「結局,条件の問題なのですね?」
「あっ,いや,いい訳です。」