体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『若者よ,マルクスを読もうⅡ』とスポーツ

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日まで,『たのしい体育・スポーツ』10月号と『体育科教育』10月号を読んで,スポーツのあり方について考えてきました。

答えは様々でよいと思ったりします。

 

ところで,最近出た内田樹×石川康宏『若者よ,マルクスを読もうⅡ 蘇るマルクス』(略称,「若マルⅡ」)を読んでいたら,スポーツのあり方を考える難しさを再認識させられるような文章に出会いました。

今日は,そのことについて書きます。

「若マルⅡ」全部を読んで考えたことを書くと云うわけではありません。

では,どうぞ。

 

スポーツとはなんだ?あるいは,スポーツはいい文化なのか,悪い文化なのか。

こういう問いを発することに違和感はあるのか,ないのか。

「スポーツは悪いか」という問いと,「スポーツは悪くさせられているか」という問いでは,主語が違う。

前者は,スポーツが主語で,後者は私達が主語だ。

 

僕らが問うときには,やはり後者の問いになるのだろう。

あたかもスポーツが自分で意志を持って変化しているのではなく,それを扱う人間が,スポーツに彼ら(僕ら)の欲望を満たすように,あるいは欲望を起こさせるようにあれこれと考えているのだろう。

 

だから,スポーツが悪い文化だというのではなく,スポーツを悪くしていると考えるるのを前提としたい。

もちろん,良い文化だとすれば,それも人が良くしているということだ。

 

しかし,昨日も引用した中村さんの次の言葉をどう考えたらいいのかという引っかかりもある。

 

「今日の学校体育の中で教材として取り上げている各種のスポーツ,および,そのリードアップ・ゲームは,自由主義思想を内蔵していて,これを教材として指導する限り能力主義的人間形成が進行することになり,民主的人間形成とか,連帯感を持つ人間とかを生み出すことは不可能であるということである」(中村敏雄「運動文化の追求・獲得とその創造・発展について」『教育評論』177号,1965年10月,p.73)。

 

スポーツに内蔵されている思想がある。

それは資本主義的競争と無関係ではない。

だから,スポーツはどう扱ってもうまくいかないということか。

ぜも,中村さんは作り替える可能性は残す。

 

なんかこれと同じような議論を読んだぞ。

と,「若マルⅡ」を手にとってめくる。

パラパラ。

 あった。

 第三部の「賃金,価格,および利潤」を読んでの往復書簡だ。

 

この本(Ⅰも含めて)は,まずマルクシストの石川さんが,マルクスの文献を読んで,当時の歴史的な事情や背景を含めてテキストを解説する。

それに,レヴィナスの造語であるマルクシアンの内田さんが,マルクスの文章の中で,琴線に触れるパラフレーズを示して,主に今の政治や経済の状況と絡めた話を,自分の言葉でするという形になっている。

 それで,僕が「同じような議論を読んだ」というのは,内田さんから石川さんへの書簡に書かれている。

 

最初に,マルクスの労働価値説の基本的なテーゼが引用される。

「すべての商品に共通の社会的実体は何か,と。それは労働である」(森田成也訳,2014)。

そして,これについて,内田少年はかつて「お金じゃないの?」と思ったという話を展開する。

 

そこから,商品が労働力の結晶であると云うことは,資本家にとっては,その労働力から多くの利潤を生み出すことを願い(剰余価値のうちの資本家の取り分を多くしたいと願い),労働者はそれでは困るという構図になる。

でも,資本家は労働者に「換えはいくらでもいる」といって働かせようとする。

 

この「換えはいくらでもいる」というのは,関西の大手私大でもトップが発言していたと云うことで有名(ノトリアス)なセリフでもある。

閑話休題

 

労働者が労働力を売るのは,それを維持するためであって,身体をこわす=破壊するためではない。

そこで,労働時間の短縮と,自由になる時間の増大を求めることになる。

これは,「ヒマが人間をつくる」という丹下保夫のテーゼでもある。

 

ここから,大阪市のバスの運転手の賃金が,他の民間のバス会社の運転手のそれよりも高いことから,大阪で「同一労働最低賃金」が云われ,最低賃金制の撤廃が云われ,こうしていろいろな会社がブラック化していく様子が活写される。

グローバル人材,カジノビジネスなど,「換えはいくらでもいる」話に展開。

 

そして,内田さんは,「このような状況はマルクスが労働者と資本家の本源的な対立について書いた時点から少しも変わっておりません」(208頁)と述べる。

この「本源的収奪」という二極化は,マルクスによれば,労働者と労働手段の本源的結合が一連の歴史的過程によって解体したということである。

 

マルクスは「歴史的過程」と突き放した云い方しかしないが,そこを内田さんは掬い上げる。

いわく,「なぜ分かち合うに足るだけの十分な資源があるときでも,それをフェアに分かち合わずに一方に蕩尽する富者を,他方に窮乏する貧者をあえて作り出すのか」(209頁)。

そしてそれに対して,やや絶望感を伴って次のように云う。

 

「この『極化』という形式はもしかすると人間の思考と行動に刻印された『十字架』のようなものではないのか,それなしで人間は思考し行動することができないのではないのか」。

この「本源的収奪」の構造は,「もしかすると人間が自分の意思で選び取ったものではないのか。そんな不安が僕の脳裏をよぎります」。

「僕は『もしかすると人間は二極化することでしか世界を整合的に捉えることができないように思考を制約された生き物なのかもしれない』というような気持ちの片付かなさを心の片隅に抱えて置いた方がなんとなく『あまりひどいこと』をしなさそうな気がする,そんな風に考えているのです」(ともに210頁)。

 

「スポーツでも同じようなことが起こる」と云うことが言いたいのだった。

これは体育同志会がスポーツにおける人間疎外を問題にしてきたことと似ている。

もちろん,単純に労働とスポーツを同じように見るということではない。

 

授業レベルでも,上手い子と下手の子の二極化は起こる。

やる子とやらない子の二極化も起こる。

大衆は低レベルのスポーツ環境におかれ,お金もあまりつかず,一方で高度なレベルのエリートスポーツにはお金が大量に投入されるという二極化もある。

あるいは,メジャースポーツへの支援とマイナーなスポーツへの支援にも二極化がある。

これは,グローバル企業が有利に経営展開できるように,国が荷担するのに似ている。

 

エリートを資本家のアナロジーで語るのは間違っているかもしれないが,両者は,常に競争に晒されるという危機感を持っているという意味では同じ。

 しかし,お金を投入するのが資本家(国も含めて)であるならば,スポーツエリートもまた労働者とみなされる。

そして,プロ野球でも労使の対立からストライキが行われたこともある。

資本家が威張っている。

ならばと選手がアメリカに行くとなると,資本家もまた選手という商品をめぐるグローバルな競争をさせられることになる。

スポーツの中の競争と,スポーツを巡る競争の二つがある。

スポーツは遊びだったのに,あるときから労働になった。

 

いずれにしても,競争を本質に持つスポーツであるので,極化は避けられないのか。

誰が望んでいるわけでもないかもしれないが,「もしかすると人間は二極化することでしか世界を整合的に捉えることができないように思考を制約された生き物」なのかもしれないのだ。

 

じゃあそれでいいのかと云えば,そうではないのだが,一気に解決できるものでもない。

というのは,「歴史が教える限り, 『一気に,徹底的に社会を人間的なものに作り替えよう』として政治運動は,ほとんど例外なく粛清と強制収容所によってそれを実現しようとしたらから」(内田,228頁)なのだ。

 

スポーツも一気に換えようとしても,それは無理な話。

でも,悪いところばかりではないよね。

学校においてはだからこそ,教材化というおもしろい仕事があるわけだし。

そういうスポーツの楽しみ方を多くの子どもたちが知ること,選択すること,組織すること,行動することになればいいが。

 

 

 

 

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