菊池浄「末吉小学校を思う」を読む
こんにちは。石田智巳です。
僕のところには体育同志会各支部のニュースが届きます。
すべてではないのですが,いろいろお願いして送ってもらうようにしています。
このニュースを読むと,各支部の様子がわかります。
記事が面白いもの,構成に工夫があるもの,多くの人に書いてもらっているもの,苦労しているなあと思わせるものなど,様々あります。
先日,東京支部ニュースが送られてきたのですが,そのなかにタイトルにもつけた「末吉小学校を思う」が入っていました。
これを読んでいろいろ思うことがあったので,書きました。
では,どうぞ。
この「末吉小学校を思う」がなぜか東京支部ニュース10月号に同封されていた。
B4表裏印刷である。
6月14日の土曜日のEGG学習会のレジメとなっている。
レジメというか,完成原稿のようにも思える。
何でこれが10月に送られてきたのかはわからないが,つい興味深くて,読んでしまう。
僕は,菊池浄さんとはお会いして話したことはない。
でも,どこかで一度話されたのを聞いたような記憶がある。
でもよくわからなかった。
まだ,体育同志会のこともよく知らなかったからだ。
ただ,菊池浄,根本誠,堀江邦昭,末吉小学校は知っていた。
菊池さんは,昭和39年から18年間(途中,3年はサンパウロ),東京・八丈島の末吉小学校にいたという。
東京オリンピックの年なので,ちょうど50年前だ。
だから,末吉小が初任だとしても,70歳以上で,戦争が終わる前に生まれていることになる。
話の要約をしたい。
民研との出会いは,校長と教員の出張旅費が違うことを組合が問題にして,差をなくしたことによる。
それによって,みんなが年に2回の出張が可能になった。
それで,勧められて民間研究団体に参加したという。
そして,「教科研国語部会・科教協・数教協・歴教協・音楽教育の会・新しい絵の会・学校体育研究同志会その他である。都教研,日教研もよく出かけた」ようだ。
「私にとって体育は教科の一つであり,教えると言うことでは算数も体育も音楽も同じでないと困る。だから良いと聞けば民研・官研を問わなかっただろう。教えるというのは技術だからだ。だからドル平や2:0に出会ってうれしかった。とにかく教えられる」。
学校を変えるために様々な取り組みを行う。
学校の変化は行事に表れるという。
ある女の子がそれまで歌わなかったが,リズム表現によって歌うようになったという。
「教材のおかげか。群馬で実践ずみの歌だ」。
僕は昨年と今年の全国教研で,群馬のリズム構成の報告を聞いた。
おそらくそのことだと思うが,教材が子どもの動きや歌を引き出すと云うことだ。
教室の絵の張り方についても書かれている。
「絵の張り方が悪い。キチンと台紙にはれ」。
おそらく同年代かやや年下かと思われる藤井喜一さんも,『体育科教育』2014年7月号で「教室広報の掲示板からも様々な工夫が見て取れた。画鋲の使い方一つにしても,そこからたくさんのことを学べた」(9頁)と書いているように,教科指導だけではなく,教える技術は様々に開発されていたのだろう。
わからないことは,自分たちで仮説を立てて1年かけて検証し,良いものを採用する。
教材・教具は自分で工夫し,自前で用意する。
「卒業式は最後の授業だ。だから私はこう賢くなったといってもらいたい。地球の大きさだって測れるぞといってもらいたい。送るために在校生に良い歌を歌ってもらいたい。そのために詩を朗読したり,リズム表現をしてほしい。6年担任になったら卒業式を見越して授業計画をたてる」。
そして,結論。
「学校へ来たら,友達や先生や勉強で何か一つでも『いい思い』を味わい明日また来ようと思って帰る」これが学校だ。
教師は「ふんわりたぷたぷケセラセラ」(←これは意味不明)。
「終わりに」では,同志会のおかげで論理的に教えることを学んだという。
「ソフトボールやドッジボールから抜け出して,体育が授業になった。単なる繰り返しや『がんばれ』から抜け出した。私にとってすばらしい事だった。『気をつけ』『前習え』も笛も不要だった」。
「だが,『美』に当たるものを伝える素地がなかった」ことを悔やむ。
単文で,ものすごくテンポのいい文章。
本人は伝えたいことがたくさんある。なにしろ,40年近く教師生活をしてきたからだ。
実践記録でいうところの,「強調と省略」がなされるわけだが,伝えたいことが明確だ。
菊池さんの正確な年齢はわからないが,少なくとも戦後に教育を受けた人である。
ちなみに,76歳になる僕の父親は,小学校ではカタカナから習ったという。
そして,74歳の母は,ひらがなから習ったという。
ここに戦争前と後の教育の境がある。
戦後の教育は,それまでの命令,注入をやめて,やや自由放任の時期があった。
その後,58学習指導要領の頃から,教育内容の現代化運動,民間教育研究団体の胎動などで,教えることが主題化されていく。
さらに,教えると言っても,子どもの思い方や感じ方といった発達の側面を大切にする。
菊池さんの教師生活のはじまりは,そういった時期と重なるわけであり,この文面からもみんなが「教えること」,「うまくすること」,「賢くすること」に飢えていた事がよくわかる。
算数,音楽,体育,絵の張り方など,どんな情報でもいいというなら試してみるという姿勢だ。
それは,お上のいうことを真に受けずに自分たちで考える,自分たちで作るという時代だったのだろう。
戦後,それまでの教育が否定された。
当時の若い世代は,自分たちが教育をつくり,未来の世代を育てるという,まだ誰も手がけていない仕事を担っていった。
この世代は,連帯することも知っていた。
連帯しないと生きていけない時代があったから。
ここには「運動文化論」なる言葉は一言もない。
運動文化論の構築を真剣に考えていた人たちと,自分の授業実践をよりよくしようと学びに飢えていた人たちとがいる。
前者は,もちろん後者でもあっただろうが。
サークルを支える人の参加動機はさまざま。
でも,まずは自分なんだろうな。
以前,90年代になると,「教えから学びへの転換」「技術的実践から反省的実践へ」といわれたと述べたことがある。
官の方でも,「指導から支援へ」と転換した。
それによって,60年代から70年代に教えるために払った先人の努力を,たらいの水を流すような転換が起こった。
その結果,教師の教える力が低下したようだ。
僕は,そういう意味で「教育技術」「指導技術」,あるいはもっと端的に「教えること」は,もっと見直されて良いと思う。
その上で,子どもの学びを考える必要があると思う。
ちょうど,中村敏雄さんがうまくすることができるようになってきたときに,「うまくしてどうする」と云ったように。
追記
2015年6月19日に,菊池浄先生本人からこのブログにコメントをいただきました。
個人情報が載っているため,コメントは承認しませんでしたが,以下のことが書かれていました。
「読んでいただいてありがとうございます。
私は1933年生まれです。小学校時代戦争でした。
ふわふわたぷたぷケセラセラは私の造語です。
ふんわりとたっぷりと過ごし、あとは
ケセラセラです。」
嬉しいですね。
少なくない人とつながっていけています。