ゼミ生の研究のこと1
こんにちは。石田智巳です。
今日は,ゼミ生の研究のことを書こうと思います。
僕のゼミは,4ゼミ(4回生ゼミ)11名と3ゼミ(3回生ゼミ)15名です。
ゼミの仕組みや選考の仕方,進め方については,またオイオイ述べていくことにして,今日は昨年の研究とそれを膨らませる今年の研究についての話です。
と思って書き始めましたが,話がそこまでたどり着きませんでした。
なので,それ以前の話,はじめてゼミ生の論文が表彰を受けた話です。
では,どうぞ。
僕は初等体育科教育法や,中等の保健体育科教育法を主な授業科目とする教員である。
ところがゼミは体育授業を中心として扱うわけにはいかない。
なぜか?
それは,教育学部や体育学部ではないから。
僕は産業社会学部に所属している。
社会学,あるいは社会科学の学部である。
そこにある小学校の教員養成機能を持つ専攻,子ども社会専攻に所属している。
しかし,そこには各教科の担当者もいるのだが,なんとなくゼミは教科教育法にはしないという申し合わせがある。
そのため,僕は「子どもとスポーツ」という大枠でゼミを開講している。
そこでは,もちろん体育授業に関わる内容を扱うこともあるが,部活動の問題(指導者の問題,野球の連投の問題など)や,体罰の問題なども扱っている。
前期は,基本文献を読んで,後期には11月末から12月頭に行われるゼミナール大会に出ることを目標にする。
このゼミナール大会とは,1回生から4回生までの任意の個人やグループが,いわゆる学会発表のように研究を発表する会である。
1部で優秀と認められた場合,ホールで行われる2部へと進むことができる。
その数は5つ程度。
これは狭き門ではあるが,ゼミ大(1部)に出たグループは,学部長表彰論文なるものに応募することができる。
この学部長表彰論文は,ゼミ大で発表した研究を論文にまとめて提出する。
それが,教員による審査に回り,結果,最優秀賞,優秀賞が選ばれる。
さらに,13グループぐらいが教育賞を貰うことができる。
この教育賞を狙うのだ。
和歌山大学の最後のゼミ生はたった一人(武者修行の学生1名もいたが)だったこともあり,立命に来たときにはかなり戸惑った。
15人といえば,和大の保健体育科教育法の授業よりも多いのだ。
最初の3ゼミは金曜日の5限に開かれたため,学生は半分以上部活に行ってしまい,ゼミの体裁を整えることすら難しかった。
次の年は,ゼミ長さんにお任せでやっていた。
これではまずいと思って,3年目からは後期にゼミ大に出ることを決めて,それに向かってグループ研究を進めることにした。
学生に研究をさせるときに難しいのは,レポートと研究の違いを理解させることである。これは,4回生も同じ。
以前は,何がやりたいのか,どんなことに興味を持っているのかを出させて,その大雑把な領域でグループを作って,研究計画を出させていた。
しかし,それではなかなかうまくいかないことにこちらも気づいた。
彼らの思考は,次のようだ。
体育は体力向上のために必要な教科だ。
でも,体育嫌いが生まれるのは,体育授業でできるようにならないからではないか。
だから,体育嫌いをなくすためにはできるようにすればよいと考える。
今後についてはこれから考えたい。
問題に対して,仮説があるように見える。
でも,これではダメだということをやんわりという。
強くいうとスネるからね。
思考の様式が逆さまなのだ。
体育嫌いについてやりたいならば,体育嫌いに関わる文献を集めて,それを整理する作業から始めないといけない。
「体育嫌い」研究は,どのような内容と,どのような方法ですすめられてきたのか。何がわかっていて,何がわかっていないのか。
あるいは,何がされていないのか。
彼らは,そうではなく,体育嫌いの子どもの姿を思い浮かべて,それに,手持ちの切れ味の悪いナイフで直接アプローチしようとする。
だからうまくいかない。
アプローチする対象は,現実の事象ではなく,先行研究である。
しかも,その先行研究は教科書ではない。
教科書が参考にする一次資料の方である。
それはかなり大変なことである。
だから,指導も難しいのだが。
話を戻すと,3年目のゼミ生は,5つのグループがあったが,結果として一つのグループが教育賞をもらった。
賞金(奨学金?)として5万円も貰えた。
この研究の概要は次の通りだ。
「教師と子どもが主体である授業を行うためには,どうしたらいいか」という大きな問いを設定。
先行研究をあたるが,なかなかいいのがない。
そこで,楽しい体育以降に,個性を重視した「めあて学習」の報告をあたって,「教師と子どもを主体にする授業」における教師の役割について抽出する。
また,楽しい体育以前の1970年代までに行われていたグループ学習に目を向けて,子どもを主体にするための教師の役割について抽出する。
この二つを比較する。
後者は具体的には,出原さんの「ハンドボールの授業」を対象とした(他にもあったが)。
この授業は,元奈良女や兵庫教育大学におられた小林篤さん(のところの学生)が,態度スコアなるものを調べていたのだ。
そこでは,授業の前と後とを比較すると,女子高生の体育授業に向かう態度がうなぎ登りに上昇したこと,反対に,唯一教師の存在に対してだけは「要らない」と報告したことが載っている。
出原さんの授業で活動する生徒たちを,小林さんは,「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の民」という言葉で表現した。
政治が行き届いていれば,そこで暮らす民は天下の太平を満喫できるということであり,それを用意した政治家のことは忘れられがち,ということである。
そのため,彼女らは,出原さんの授業の構成や進め方から,グループ学習の特徴を抽出した。
「めあて学習」は,多様な場を用意して,個々の子どものニーズに応えようとする。
しかし,放任になりかねない。
「グループ学習」は,子どもたちに自分たちなりの活動をさせるが,事前の教師による準備や体育ノートの点検などが大切な役割を果たす。
こうして,グループ学習こそが,教師も子どもも主体性を発揮できる学習法だとする。
という研究。
これでは,つまらないでしょ。
そこで,もう一つひねりが生まれる。
壺井栄の「二十四の瞳」を見ると,主役の大石先生はほとんど泣いているだけ。
高峯秀子が主役のDVDには,「一緒に泣いてあげるね」って書いてあるのだ。
しかも,足を痛めて,子どもたちとは途中でお別れ。
でも,子どもたちは育つ。
これはなんだ?
教師がかなりコントロールして子どもを育てる場合と,教師が無能(結果的に何もできない)から子どもが育つ場合がある。
教育学的にコレクトなのは,前者かもしれない。
しかし,社会学的には,生き延びるための知恵は,「自分で考えることである」という意味で後者をコレクトとする(のかもしれない)。
こうして,教師になるにあたっては前者を,しかし,いつも後者を睨んでおきたいという結論を出した。
教育賞をもらった。
彼女たち二人(さやかとあやか)は,ゼミの飲み会でいただいたお金を還元した。
次回は,別の研究(本当はこっちを書きたかった)について書きます。