体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「『21世紀型能力』とは何か」を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,「21世紀型能力」について書いてみたいと思います。

『体育科教育』という雑誌の8月の今関豊一論文「『21世紀型能力』とは何か」を読みます。ここには,学習指導要領の改訂のスケジュールも示されています。

では,どうぞ。

 

「21世紀型能力」とは,国立教育政策研究所が2013年3月に出した報告書で提案されたものである(報告書はネットで読むことができる)。

 だから,そんなに新しいものではない。

この21世紀型能力とは,「これから」の「社会の変化」に対応して,21世紀を生き抜く能力ということだが,それは,思考力,基礎力,実践力の3つの層から成り立っている。

 

思考力は,「問題解決・発見力・創造力」,「論理的・批判的思考力」,「メタ認知・適応的学習力」からなる。

基礎力は,「言語,数量,情報のスキル」からなる。

実践力は,「自律的活動力」,「人間関係形成力」,「社会参画力・持続可能な未来への責任」からなる(今関,11頁,『報告書5』,26頁)。

そして,とりわけ,思考力が中核に位置付いているということである。

 

これらは,一般的な能力を指しており,体育や保健体育という教科でどう考えるのかは,これからの作業らしい。

 

今関氏は,「『試案』とは言え,21世紀型能力に示される資質・能力は,体育・保健体育科の学習でどこまで引き取ることが可能なのか,その授業の在り方も含めた検討が今後の課題となる」(今関,11-12頁)と述べている。

また,今関氏は,体育においても,思考・判断が重視されるであろうという。

 

これって,よく見ると,キー・コンピテンシーに似ている。

 なるほど,この21世紀型能力やそのもとになった考えは,例えば,経済協力開発機構OECD)の「DeSeCo」による「キー・コンピテンシー」や,北米を中心にした「21世紀型スキル」であると報告書は述べている。

「このような動きを受けて,キースキル(イギリス),汎用的能力(オーストラリア),キー・コンピテンシーニュージーランド)など,呼称は異なるが,21世紀に求められる資質・能力を定義し,それを基礎にしたナショナルカリキュラムを開発する取り組みが潮流となっている」(『報告書5』,13頁)。

 

そして,学習指導要領の改訂のスケジュールとしては,今年度には中教審に諮問をして,中教審が動き出す。

2016年に指導要領が改訂で,2017年に教科書検定となるようだ。

だから,2017年3月の改訂を目指しているということだ。

 

この通りに行けば,2020年の東京オリンピックの年には,少なくとも小学校で新指導要領がスタートするということになる。

体育は,こちらも睨んでいることだろう。

そして,次の指導要領は,この21世紀型能力を中心として改訂されることは間違いない。

 

「本報告書が今後の我が国の教育課程編成の在り方を検討する上で貴重な資料として活用されることを願う」(『報告書5』,1頁)とある。

また,「この検討の方向性を捉えた授業への取組が求められよう」(今関,p.10)と述べるからである。

 

この報告書作成のための研究は,2009年からスタートしているという。

 現行の学習指導要領は,小学校で2011年に,中学校で2012年に,高等学校で2013年に始まった。

いってみれば,始まったばかりである。

報告書の研究は,今の指導要領が実施されるよりも前にスタートしている。

そして,この報告書の作成にあたり,「平成23(2011)年度までに,100 校超の研究開発学校の事例分析や国際調査の結果をもとに」したともいう(報告書,6頁)。

 

21世紀に必要とされる能力が,コスモポリタニズム的であってもおかしくはない。

そのことに異議を唱えるつもりはない。

そして,国立教育政策研究所なるものが,諸外国の動向を検討することは必要だと思う。

しかし,そのことと,日本のこれからの教育課題を決めるというのは,次元の違う話のはずだ。

なんかこういうのを読むと,現場を蔑ろにしていると思ってしまう。

 

その理由の一つは,キー・コンピテンシーも,21世紀型スキルも,「経済」という観点から出されているからである。

先日も,集団的自衛権はカネのためだった という記事を書いたが,教育も経済という目的のために奉仕することになる。

政治がないのが気になる。

さらに,キー・コンピテンシーやそれにもとづくPISAに対する批判,そして署名も行われている現状もある(たとえば,「あなたと分かち合いたいこと」というブログの5月30日に詳しい)。

 

でも,このことよりも指摘したいのは次のことだ。

 

今回の学習指導要領は,いわゆる「ゆとり教育」の反省に立って,教えるべき内容を明確にした。

 指導要領が示す方向性が大きく変わったのだ。

 

1990年代以降,個性重視,ゆとり教育などが推進され,指導から支援など,関心意欲態度が一番に評価されるなど,大きく変わった。

しかし,それが失敗だったとは口が裂けても言えないだろうが,現実には「ゆとりから学力へ」大幅に見直しがなされた。

それが今の指導要領である。

 

もし,教育がうまくいかないというのであれば,それは,教師の資質や能力の問題と云うよりも,浮き足だった改革を繰り返してきたことによるのではないか。

「これからの社会」は新自由主義社会だから,それに合うように改訂した。

そしたら,教育においても格差問題が起こった。

起こるべくして起こったわけだ。

 

指導要領の総括は,10年後やもっと長いスパンで見る必要がある。

しかし,総括の前に次の方針が出ている。

教育現場の課題は,教育現場にあるのであって,諸外国にあるのではないと思うのだが。

これでは,現場も疲れてしまう。

自虐史観といういい方があるが,どちらかといえば,それこそ自虐教育史観だと思ってしまうのだ。

 

僕は,『体育科教育』2011年10月号において,次のように述べた。

「『これから』を考えるならば,先達が残してくれた『これまで』の遺産を参照し,そこから何を学び取るのかと考える方が捷径であろう」(24頁)。

 

例えば,日本の授業研究はすぐれているということで,世界の多くの国が「レッスン・スタディ(授業研究)」に取り組んでいるという(日本教育方法学会編『日本の授業研究』上巻,学文社,2009)。

 

また,昭和前期に起こり,戦中には当局によって弾圧された生活綴方が,アメリカ人によって取り上げられて,研究書にまとめられている(メアリ・キタガワ他『書くことによる教育の創造』,大空社,1991)。

 

日本にはすぐれた教育の遺産が存在するが,それも時代遅れだとするのだろうか。

 

とはいえ,これは難しい問題だ。

体育同志会に集うベテラン教師は,今の研究課題が理解できて,それを取り込んだ実践を展開することができる(人が多い。と思う。たぶん)。

それに対して,若手や同志会経験の浅い教師は,「3ともモデル?なにそれ。」となるだろう。

自分の受け持つ子どもたちを「うまくしたい」と思って会に集っても,「うまくすることのその先に何があるの?」と問われるのだ。

 

ただ,体育同志会の場合,課題は会の内部から生まれてくることが多いので,まだ健全だ。

 

というか,今の指導要領でいわれている,「わかること,できること,分かち伝えること」というのは,体育同志会では「(指導の)系統性研究とグループ学習の統一」という形で,50年以上も取り組んできたのだ。

 

教育政策を考える人たちは,それでも後戻りはできないと考えるのだろう。

それが現場の課題と遊離していても。

そして,現場は積み上げた石を鬼によって壊され,また積み上げても壊されるという賽の河原となるのか。

 

そうではなく,日本の教員がいかにしたら自信を持って取り組めるようになるのか,という研究もしてほしいものだ。

 

 

http://tomomiishida.hatenablog.com/