マイケル・サンデルの教えに学ぶこと2
こんにちは。石田智巳です。
今日は昨日の続きで,マイケル・サンデル先生の教えの中味とそこから考えたことです。
では,どうぞ。
サンデル先生といえば,NHKの「ハーバード白熱教室」で有名になった人だ。
僕も本を買って読んだことがある。
ハリケーンの被害に遭った人たちがいて,モーテルが需要を見込んで値段設定する是非の話とかは覚えているけど,細かいことは忘れた。
それでハーバード大学で1000人の学生を前に(院生たちの力を借りて),ある具体的な例を挙げて二つの立場に分かれて議論をするというオープン・エデュケーションを展開する。
それと同じことを観客のいるステージで展開する。
なお,このステージはなんとロングビーチだそうだ。
さて,TED日本語(digitalcast)のサンデル先生の動画は,「失われた民主的議論の技術」である。
これは「失われた」のはアメリカの話でもあり,世界中の話でもあるという。
ベースとなっているのは,アリストテレスの前提である。
正義(justice)と道徳(morality)について,アリストテレスは「正義とは受けるに値するものを人々に与えること(Justice means giving people what they deserve.)」という。
「これだけ」で,「笑い」が起こる。
確かに意味不明。
サンデル先生は,問題は,あるいは議論は,「誰が,何を,なぜ手にするのかを議論するところから始まる」という。
正解を探すというより,議論をして合意を作っていくことなのだろう。
最初の例は,誰が最良のフルートを手に入れるべきか?なぜか?だった。
みなさんは,昨日の記事に貼っておいたリンクに目を通しているだろうから,議論の中味は知っていると思うけど。
あえて書くと,「最良のフルート奏者」となる。
で,問題となるのは「なぜか?」である。
この例で,サンデル先生はアリストテレスの答えを持ってくる。
アリストテレスによれば,フルートが存在しているのは,うまく演奏されるためである。
「物の分配を 論理的に説明するためには 物が存在する目的 あるいは 社会活動の目的を 論理的に説明したり 議論することが必要である」という。
正式には,「・・・」とアリストテレスが言っている,とサンデル先生は言っている,となる。
「正義について考えるとき アリストテレスによれば 我々が真に考えねばならないことは 問題となっている活動の本質であり 賞賛され 賛美され 評価される 性質についてである」。
次に最近の例として,ゴルフの例が出てくる。
これは面白い議論になった。
ケイシー・マーティンというプロゴルファーがいて,しかし彼は足に障害を持っていたので,歩くのに困難を持っていた。
そこで,PGAにカートの使用を認めてほしいと言ったが,「ノー」と言われた。
「不当なアドバンテージを与えることになる」という理由だ。
そのため,彼は裁判に持っていたら,最高裁(先日,性的な暴行容疑で訴えられていた共和党のブレット・キャバナーが判事になった!)までいって判決が出たという。
そこで,このカート使用の是非を巡って,サンデル先生はフロアに賛成と反対を訊いて,それぞれ意見を出させた。
ここのやりとりは見て味わうのが一番いいのだが,ここではさらりと進むことにしたい(5分10秒から)。
最高裁の判決は,7対2で「カートを与える」だった。
「歩くこと」がゴルフの本質かどうかが議論されたのである。
ちょっと単純化しすぎだけど。
実は,会場でも,「歩くこと=持久力,体力もゴルフのうちで,不当なアドバンテージを与える」という意見と,「カートはゴルフの一部ではない」という意見に分かれていた。
ここからサンデル先生の話が面白いのだが,もしこの議論を「不当なアドバンテージ」の問題であるとするならば,あるいは不平等の問題とするならば,解消するのは簡単。
希望者はみんなカートに乗せればいいから。
そうではなくて,ゴルフにおける体力とは何か,本質とは何かが問題になる。
だって走るわけでも,跳ぶわけでもなくただ制止しているボールを打って,少ないストロークで回ることが目的なのだから。
その意味で,ゴルファーは他の競技と比べて,体力に関してはかなりセンシティヴだという。
世界一になるために必要なゴルファーの体力とは何だ?ということ。
だから,ゴルファーはあえて「歩く」という体力までも持ち出して,ゴルフそのものをスポーツとして正当化する必要があると考えるようだ。
それに対して,サンデル先生は,アリストテレスの前提に戻って言う。
「問題となっている 活動の本質は何か その活動における どういった性質や どういった卓越性が 名誉や評価を受けるに値するのか?」
ということで,歩くことは付随する問題であって,本質は様々な状況下で,ボールを正確に打つことになる(とサンデル先生は言っていないけど)。
そして,次に,同性婚の問題に移る。
自民党の杉田議員が「LGBTは生産性がない」と発言したことで,かなり議論が巻き起こったようだし,雑誌が廃刊になったほどなのに,安倍首相はかばったということも問題となっていた。
サンデル先生は,ここでも観客を賛成と反対に分かれさせるが,観衆に意見は言わさない。
ただ結婚の目的を生産性(ここではprocreation,繁殖)を問題にするであろう人たちと,結婚とはそれだけに留まらず愛情にあふれた相互の献身だって目的だとする人に分かれるだろう,というにとどめる。
デリケートな問題だからね。
そして,もう一度アリストテレスを引いて,「社会制度の目的や活動のどのような性質が,賞賛と評価の対象となるのかについて,十分な議論がなされた後でなければ,正義についての議論を行うことはできない」という。
そうなのだ。
結論を出すことが当面の目的なのではなくて,二段構えで議論を尽くすことが目的であり,サンデル先生はおそらく,それが民主主義の技術を復活させる方法だという。
内田樹さんも,高橋源一郎さんも,そのことを特に強調していた。
小泉首相のころから,複雑な話を単純化して,どっちか?といいつつも結論ありきの議論をするようになった。
しかも,反対する人を罵倒するようにもなった。
サンデル先生は,これまで政治における道徳的な問題に直接コミットすると,不一致や不寛容や抑圧を作りだすという考えがあり,人々はできるだけ無視した方がいいと考えてきたが,そうではなくて,正義や道徳的信念と向き合い,取り組むべきだと考えると述べる。
それが,アメリカのため,世界のために。
僕は杉田議員の発言は,優生保護法を復活させたいの?なんて思ったけど,それも話の単純化かもしれない。
結婚の本質は何か?我々は何をこそ大切にしなければならないのか,議論をした上で,正義の話が議論できるのだ。
話を単純化して言い争うことが民主主義構築の目的ではない。
さて,アメリカに来て驚くのは,本当にエビデンスを大切にする国だとしみじみと感じさせる場面が多いことだ。
CSUロングビーチでは,2007年からあるプログラムを行う場合には必ず,結果を示すことが求められるようになったという。
だから,障害を持つ子どもの体育プログラムでも,プレ・ポストテストで成果を示すことが求められる。
ロングビーチ市では小学校の体育の授業は,ないがしろにされがちだという。
これは,日本でもおそらく同じで,運動会のシーズンとかに起こっていることを見れば,よくわかる。
ロングビーチの小学校では(というか多分カリフォルニアでは),体育は10日で100分。
スポーツはやらない。
だから,協力的な学習(社会的,情緒的な学習)と体力を高める学習を組み合わせてプログラムが提示されることになる。
アメリカにはK-12 Physical Educationというナショナルスタンダートがあり,それと並行して各州のスタンダードがあるようだ。
Dr.Galvanは,カリフォルニア州のスタンダードにしたがっているといっていた。
ナショナル・スタンダードを見ると,グレード(学年)によって,発達させるべき能力が事細かく示されている。
スキルや体力が中心になるのだが,評価もまた細かく行うことになる。
体力(持久力や筋力,柔軟性)は測定される。
一番わかりやすいエビデンスだから。
評価は,評価規準と基準がある,いわゆるルーブリックになっている。
Dr.Hellsonの責任学習モデルのように,社会性や感情も評価の対象になる。
今年の6月に亡くなったDr.Hellisonは,Dr.Galvanのメンターだそうだ。
アメリカは世界で2番目の肥満大国である(1番はメキシコ)。
でも,世界一のスポーツ大国でもある。
その国が,少なくとも自国の体育はこうあるべきだと決めている。
これはこの国が議論を尽くして(多分)たどり着いた体育のあり方だから,そこに干渉する必要はない。
ただし,グローバリゼーション=アメリカナリゼーションという命題に従えば,この考え方がいずれ日本にも取り入れられるような気がする。
日本の置かれている状況という文脈はなしで。
「なんで?」「アメリカがやっているから」
日本の80年代以降の民営化だとか,陪審員制度などの政策は,「アメリカがやっているから」という理由だし,サロンパスも,オレオも,VO5も,みんなアメリカ。
サンデル先生やアリストテレスに戻れば,ズバリ日本において「体育の本質は何か?」が議論されることが必要だろう。
発展させられるべき能力は何か?
1960年頃の話ではなくて。
そうなると,手前味噌みたいだけど,スポーツを多面的に考えることできる能力が大切になるのではないか。
別にスポーツ選手育成のために体育があるわけではない。
もちろん,うまくなることは大切な要素だ。
でも,その一元的な価値で体育を考えると,うまい=良い,下手=駄目となる。
どういう風にスポーツ・運動文化と関わるのかが大切なのだろう。
そして,評価もエビデンスが重視されるあまり,「測定できないものはないと同じ」という倒錯が起こらないようにしないといけない。
体力要素が上がることも大切だけど,彼,彼女の身体運動やスポーツに対するナラティヴがポジティブに変化することが何よりも大切なのだと思う。
研究パラダイムの質的な転回のように,評価における質的な転回も起こるのではないか。
といいなあと思ったりしますが,それが道徳の評価のように教師を苦しめるとなると本末転倒ですね。