体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の冬大会2017 その4 やはりプロ教師

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も冬大会について書きます。

今日もやはりプロ教師の語りについてです。

では,どうぞ。

 

冬大会の夜は,大レクといわれる文化交流の夕べが行われた。

これは,夏の全国大会で行われているもので,この冬大会で復活した。

僕は挨拶をするのかと思ったが,開会宣言ということだったので,開会を宣言した。

残念ながら,部屋に携帯電話を忘れてきたので,写真が一枚もない。

 

実は,2年前の冬大会でもみんなで忘年会をやろうと提案した。

しかし,そのときは丁度週末にかかっており,場所も取れなければ料金も高かった。

おかげで,僕たちが頭のひねりながら勉強している横の部屋から,カラオケが聞こえてきた。

コンパニオンのきれいどころも何人かいた。

 

さて,2日目の朝である。

僕は,「実践記録とは何か」という講座に出た。

講師は滋賀のカリスマ,澤豊治さんだ。

澤さんのことはいろいろ話したいことがあるけど,ここはこらえておこう。

 

一つだけ。

夏の山梨大会のときに,2018年夏の全国大会を熊本支部が正式に辞退した。

地震の影響が大きく,開催できなかったときのことを考えて早めの辞退であった。

そのときに,次はどこの支部にお願いするかということを,大会が始まる前から事務局の方であたっていた。

そして,全国総会の夜に,関近ブロックを中心に部屋で意見を出し合った。

そのときに,澤さんが「2018年は滋賀でやる」と言ったのだ。

もちろん,個人の一存ではできないが,「こんなときだから,盛大な大会を開く」必要があると,あの目力で訴えていた。

みんな感動していた。

そして,それが実現した(する)。

ちなみに,兵庫支部ニュースにそのときのことが書かれている。

「311宣言」と名付けられていた。

311とは石和温泉のホテルの部屋番号だ。

 

講座は,澤さんの教師としての生き様を語りつつ,実践記録について語るというものであった。

昨日の矢部さんの講座に出ていたメンバーが,何人もいた。

智江子さんもいた。

 

話は,愛知県で保健体育教師になったときにさかのぼる。

初任の校長先生から,「一人前の体育教師とは」について話をされる。

それは,「部活指導のできる教師,体育でしっかり汗をかかせられる教師,生徒指導のできる教師」だった。

月曜日の朝は朝礼で,こういうときに「なめられたらあかん!」ということで,おしゃべりをしている生徒がいたら,そこへ行って「パカーン」(30数年前の話)。

これが期待されている体育教師の姿だ。

 

サッカー部の顧問で,県でベスト4になり,ある生徒は高校からサッカーで推薦の話が出た。

でも,断ったという。

もうサッカーはやりたくない,とのこと。

別の生徒は,練習するのが嫌で歩道橋から飛び降りて骨折したという。

そのときに,その生徒に「情けない奴だ」と声をかけたという。

子どもの気持ちが全然わからない教師だった。

 

そして,滋賀県で採用された最初の日に,たばこを吸いながら自転車で校庭を走る生徒,バイクに乗った小学生,シンナーでふらふらの中学生などがやってきたという。

それを見た校長先生は叱ろうとしない。

「どうなっているの?」

ここで管理教育のメッカ愛知で教わった若い体育教師の血が騒ぐ。

 

あるときに,澤さんが不良をしかり飛ばしたところ,親がやってきて朝5時までずっと文句を言っていったという。

澤さんは,後に,不良の親が親として唯一子どもにしてやれることが,学校に文句を言うことだ,という見方を手に入れることになる。

また,不良がなぜか学校を休まないことの理由として,学校が「唯一の逃げ場」,「良識のある大人のいる場所」だという見方をするにいたる。

 

そういう見方をするようになった一つが,民間教育研究団体に学んだからだという。

実践記録については,最初に書いたのは,全然授業に出てこない生徒が多い中,数人の生徒でやって2人だけが大車輪ができるようになった実践の記録だったという。

実践記録というのはそういうものだと思っていたから。

 

そのころ,澤さんの教師生活の恩師にあたる人から,「校長が変わっても学校は変わらない。体育の先生が変わったら(ものの見方が変わったら),学校は変わる。学校体育研究同志会というサークルがあるから,行ってきなさい」といわれて,同僚の若い漆山さんと出かけていった。

それで,この大車輪の実践記録をもって行ったら,塩貝さんや出原さんに「ぼろくそに」言われることになる。

「自慢しに来たんか!!」

でも,実践記録とはそういうもんだと思っていた。

 

それから2~3年やっていて,ようやく「子どもの土俵に降りる」ことができるようになった。

たとえば,跳び箱の授業をやっても,生徒たちは乗ってこない,「やりたくない,やらない」といってくる。

そして,女子のバレーボールの授業で,基礎→ゲームの授業をやろうとしても乗ってこなかった。

しかし,彼女らは,横で楽しそうに円陣パスをやっている。

そこで澤さんは,じっと見ながら,パスのやり方を教えるのでなく,「どうやったらうまく続くと思う?」という発問をした。

そしたら,子どもたちも授業に乗ってきた。

そのことを実践記録にしたら,今度はほめられた。

教えたいことと,学びたいことの一致の意味が少しわかった。

 

実践記録には,教師の悩み,立ち位置,子どもの現状,子どもにこうなって欲しいという願いを書くことになるという。

挑戦的に書くとも言われた。

授業の前に書くこと,授業の後に書くこと(何が足りなかったのか,何がよかったのか)がある。

そして,独りよがりを防ぐために仲間と分析すること。

それによって,次の実践へつながるし,積み重なっていく。

 

さらには,生徒と教師,生徒と生徒のやりとりも書くとよい。

そして,ここからがすごいのだが,書いたものを学校の他教科の先生たちに見せて,子どものことでつながるようにすることだそうだ。

 

佐々木賢太郎さんは,南部中学校にいたときに,「教師仲間」という文集を3年間で22号出したという。

こんな話もある。

「南部中学でさっきちょっと話にでた佐々木賢太郎さんと,勤評(勤務評定闘争)の後でいっしょになった。その時の南部は,彼によってガラッと変えられた。というのは,ごく最近,その当時に教えた子どもの話を聞いたのですが,体育の先生だった佐々木さんは,体育の時間に帳面を保たせたという。体育をすれば書く,とにかく一日授業が終わったら放課後書く。子どもの間で何か問題が起こったら書く,というように,とにかく書かせたという」(「座談会 戦後和歌山における教育運動」,『季刊 教育運動研究』1977年4月)。

 

とにかく,教師や子どもの思いや願いを出させて,共有したのだ。

 

また,八丈島の菊池淨先生たちの学校では,とにかく職員室で子どもの話をするようにしたという話を読んだことがある。

これも同じで,教師たちで子どものことを共有して,みんなで育てるということに徹しているのだ。

 

つまり,実践記録は教師の授業の力量を上げることや,子どもの見方を鍛えるだけではなく,学校や教師たちを変えることもできるというのである。

 

もう端折るが,長崎の平和学校の話が圧巻だった。

やんちゃな子どもたちが戦争で被害を受けた人の話を一生懸命に聞いており,みんなで合唱したときに,その子らみんな涙をこらえて上を向いて歌っていたという。

その話を,涙がこらえられない澤さんが熱く語ると,隣で智江子さんがすすり泣いていた。

 

卒業式で,代表による答辞,送辞をやめて,みんなの群読にして,親にも入ってもらったという話。

それを聞いていた下級生の一人が窓ガラスを割り始めたという話。

何でそんなことをしたのかという澤さんの解釈・・・・・。

 

実践記録では,あの有名な「『どついたろか』のサッカーから,『おら,ようきばったの』のサッカーへ」の話はまったく出てこなかった。

そして,系統性研究を学んでいい授業をつくろう,なんてこともまったく出てこなかった。

 

澤さんは,何よりも子どもの幸せのために教師にできることを,ただただ追求されてきていた。

そのことをみんなでやろうと言っていた。

そして,教育のことを語るその口調にみんな引き込まれてしまう。

澤さんを頼って体育同志会に入って勉強している中学教師が多い。

澤さんの教え子で,体育同志会に入った教師もいる。

 

これだけ熱く語ることができる教師はめずらしい。

誇りに思う。

夏も楽しみです。

 

 

 

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