体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の冬大会2017 その2

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育同志会の冬大会「その2」です。

「その1」では,丸山さんの体育同志会の歴史について自分なりに書いていましたが,長くなりすぎて中途半端に終わってしまいました。

本当は,そこから「3ともモデル」の話をしようかと思ったのですが,できませんでした。

続きを書こうかと思ったのですが,くどくなるので,今日は一日目の後半の講座について書きます。

では,どうぞ。

 

今回の冬大会の特徴は,全体会で丸山さんの話を聞いた後,8つの講座に分かれたところにもある。

参加者は1日目の後半と,2日目の前半とで,2つの講座に出ることができる。

①教材・教具(久保健)

②作文の綴らせ方・読み方(矢部英寿)

③実践記録(澤豊治)

④時代を拓いた実践(森敏生)

⑤部活動講座(神谷拓,堀江なつ子)

⑥体育理論(成瀬徹)

⑦障害児体育(大宮とも子)

⑧健康教育(上野山小百合,窪田浩尚)

 

中々のラインナップだ。

講座を開くことができる人はまだまだいるが,それらの人は来年あるいはそれ以降に出番が待っている。

 

僕は,1日目は②の作文の綴らせ方,読み方講座に出た。

講師は矢部さん。

プロ教師というのはこういう人のことを言うのかと考えさせられた。

 

そして,おもしろかったのは,そこに奥さんの智江子さんも参加していたのだ。

智江子さんは,全体会で,まさに自分の問題意識に関わって,丸山さんに質問していた。

つまり,「(前略)子ども同士の合意形成を主軸とする異質協同のグループ学習として展開されますが,そこでは教科内容を巡るつまずきや生活を背負った子どもたちの価値観と運動文化の間に必ず衝突や矛盾が生まれます」という丸山さんの提案集の文章に対して,「『必ず』起こる(起こす)ためには,教師としてはどうすればいいのか?」という質問である。

 

僕に言わせれば,体育同志会の実践記録に書いてあるとしか言いようがなく,講座の際にそう言ってみたが,読んだけどよくわからないとのこと。

 

それで矢部旦那の話は始まった。

話は,いきなりボストン紅茶事件の話から入る。

そんなの知っている人いるの?って思えるような話だ。

 

僕は,尊敬する松岡正剛先生の『誰も知らない世界と日本のまちがい』(春秋社)を読んでいたので,この事件は知っていた。

「イギリスは紅茶も仕切っていった。まあ,当時のイギリスほど貪欲な国はないですから,何でも仕切っていったんですが,そしてあげくのはてに,なぜかその頃はコーヒーよりも紅茶が好きだったイギリスの植民地アメリカに対して,紅茶に高い関税をかけて暴利を貪ろうとした。/これが1773年の『ボストン紅茶事件』(ボストン茶会事件)という暴発事件に発展して,アメリカ側からボイコットされました。そしてこの事件をきっかけに,アメリカは独立戦争に入っていった」(p.15)。

 

そして,今はアメリカでは紅茶よりもコーヒーの方が飲まれている。

 

アメリカでは,1885年にドクター・ペッパーが売り出され,1887年にコカ・コーラが,1893年ペプシ・コーラが売り出される。

コーヒーも含めて,これらは黒っぽくて,カフェイン含んだ飲み物だ。

アメリカのスポーツは,1891年にバスケットボールが,1895年にバレーボールができる。

時代的には,コーラとスポーツは同じ時代になる。

まさに自由主義競争の時代にスポーツは生まれるため,スポーツそのものにそういう思想が埋め込まれているという。

こういう発想で授業を考えることとができる人は少ないのではないかと思う。

 

ただ,だからスポーツが悪いというのは短絡的だ。

スポーツのそういった側面が好きな人が多く,スポーツにそういう性格を持たせて管理している人たちがいるのである。

バスケットボールは,ネイスミスが生み出したYMCAルールでは,より教育色を強く出していたけど,YMCAとは別に協会ができると,そこで競争色を強くおびて,かつより技術・戦術的にも複雑になっていく。

高度なスポーツへの要求はそうならざるを得ない側面がある。

 

ただし,それだと大衆を置き去りにしてしまうことも事実である。

だから,昨日の話の「技術だけではなく,組織や社会(条件)をも含めて運動文化・スポーツをわがものにできる子どもたちをつくる」ことが必要になる。

その際の授業イメージとして,ルールを作る各種スポーツの機構に意見を言えるようにするというのでは,あまりにも飛躍しすぎる。

 

だからといって,勝手にルール変更したものを与えても,現実のスポーツ世界と切り離した子どものスポーツの世界を教師が用意したに過ぎない。

それは普通,教材づくりと呼ぶ。

その上でまったく切り離されたスポーツをやって,それなりの技術・戦術的の能力を獲得するとともに,チームとして団結していく。

それだけでいいの?

 

子どもの論理と,スポーツの論理をどうやって一元的に把握するのかは,教育学的な問いだ。

生活の論理と教科の論理の統一は,生活綴方にも見られたが,生活の論理が強すぎた。

60年代になって,教育内容の現代化のように,教える内容そのものの研究が始まって,たとえば仮説実験授業や,ゆさぶりなどの発問研究などから成果が見られるようになってきた。

体育でも,たとえばドル平泳法のように,泳ぐというその一般性の方を子どもの生活に屈折させてつくり出すという考え方も生み出された(中内敏夫)。

 

しかし,子どもを権利主体としてとらえ,かつ子どもの論理とスポーツの論理をどうやって統一するのか,そしてそのことと,矢部智江子さんが質問した上述の丸山さんの文章の中に出てくる,矛盾や衝突をどう止揚するのか,これらにどう答えるのか。

 

すでに体育同志会でも,いくつかの考え方が見られる。

ただし,そういう問いの立て方をする研究会でしか,それに対する答えは見つけられない。

で,そういう問いの立て方をする研究会が体育同志会なのである。

 

矢部さんの話のさわりだけで終わってしまいました。

続きは,また。

 

 

 

 

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