村上春樹『ノルウェイの森』の寮の話
こんにちは。石田智巳です。
先日,「『日本会議』について」という記事を書きました「日本会議」について 。
このときはソフトに書いたのですが,読めば読むほど恐ろしいことになっていることがわかりました。
ところで,関連本をたくさん読んでいたときに,面白い記述に出会いました。
今日はその話です。
鈴木邦男さんの話を読んで,思ったことです。
では,どうぞ。
「日本会議」について書かれた本をさらに集めて読んでみた。
以前買った本は,こちら。
それに加えて,次の3冊も買った。
同じようなニュースソースになるので,似たような内容になるのだが,それでも書き手の興味・関心によって落としどころが異なる。
それで,こういう右翼的な組織の話になると,たいてい引き合いに出される人物がいる。
それが,鈴木邦男さんだ。
僕も,この人の本を読んだことがある。
それがこちら。
鈴木さんは,いわゆる70年安保の頃に,学生運動に参加している。
といっても,全共闘,いわゆる左翼ではなく,民族派,つまり右翼である。
そして,日本学生同盟という右派学生の全国組織の委員長になる(ただし,1ヶ月で解任されるのだが,このあたりは菅野完『日本会議の研究』275頁以降にくわしい)。
鈴木さんの学生時代の話は,いろいろなところに載っているし,本人も書いているのだが,乃木坂にあった「生長の家学生道場」に入寮する。
朝は4時50分(4時半という説もあり)に起きて,「お祈りをして,国旗掲揚・国歌斉唱し,谷口雅春先生の話を聞いていました」(インタビュー『日本会議と神社本庁』,191頁)。
で,この「生長の家学生道場」がどこにあるのかというと,青木理『日本会議の正体』(平凡社)には,「昭和38(1963)年,早稲田に入学した時,東京・赤坂にあった生長の家の学生道場に入ったんです」(67頁)というように,赤坂となっている。
でも,菅野完『日本会議の研究』には,「1963年,早稲田大学に入学した鈴木は,乃木坂にあった『生長の家学生道場』に入寮する』(276頁)となっている。
僕は,東京の地理はまるでダメなので,地図で調べてみると,赤坂と乃木坂は千代田線で一駅だった。
だから,どちらでもいいのだろうが,早稲田からは遠い。
で,なんでここにこだわりがあるのかというと,このような話を別のどこかで読んだことがあったからだ。
『日本会議と神社本庁』で,鈴木さんのインタビューを読んでいて,あっと気づいた。
そこで,探してみたらやはりあった。
それが,これ。
この第二章に,「僕」が学生時代に住んでいた場所のことが書かれている。
「僕はある学生寮に住んでいた」
「東京のことなんて何ひとつ知らなかったし,一人暮らしをするのも初めてだったので,親が心配してその寮をみつけてきてくれた」
「その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった」(24~25頁)
その後,土地の名前が出てくるのは,「僕と直子は,四ツ谷駅で電車を降りて,線路脇の土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた」(38頁)である。
赤坂と四ッ谷はそんなに遠くない。
やはり乃木坂の生長の家学生道場だったのだろうか。
一端戻って,『森』の寮の記述を見てみよう。
「この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はある極めて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており,その運営方針は―もちろん僕の目から見ればということだが―かなり奇妙に歪んだものだった。」(26頁)
寮設立の精神は,「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」だった。
そして,「月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており,そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった」(26頁)というが,「僕もくわしいことは知らない」=僕はそっちには関わっていないということだった。
「寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。スポーツ・ニュースからマーチが切り離せないように,国旗掲揚から国歌は切り離せない」(27頁)。
間違いない。
早稲田出身の村上春樹さんの住んでいた寮は,生長の家学生道場だ。
こんな発見をしても,学会で報告するわけでもないのだが,妙に嬉しくなった。
そして,とどめを刺すために,ネットで,「ノルウェイの森」,「寮」といれて検索したところ,和敬塾 - Wikipedia,がトップに出てきた。
なるほど,「和敬塾」というのか。
と思ってみてみたら,文京区目白台にあると書かれている。
ということで,また文京区目白台の場所を調べてみたら,早稲田駅の北側だった。
あれ?違う。
どういうことだ?
これ以上はわからないけど,おそらく当時はそういう日本の行く先を憂う国士が,若者を育てるために私財を投げ打って寮を作ったりしていたのかな。
すごい発見だと思ったのも,つかの間。
何も関係ありませんでした。
もしかしたら,村上さんは鈴木先輩の話を読んで,そこにヒントを得て書いたのかもしれませんが。