体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の冬大会3 岡崎実践編

こんにちは。石田智巳です。

 

今日,7日は大阪で「新春シャンソンショー」をやります。

僕は,越路吹雪が好きで,よく聞いていたので,それをベースに唄います。

ウソです(越路吹雪好きは本当です)。

 

「新春記念講演会」です。

そのために,正月返上で中教審答申を読みました。

ウソです(読みましたが)。

読んだら,とても勉強になりました。

同じことを繰り返し述べている部分と,歯切れの悪い部分がよくわかります。

 

でも,今日は冬大会の岡崎実践についてです。

では,どうぞ。

 

前回のブログには,岡崎さんの授業を見に行ったことを書いた。

この実践は,附属中学校という独特の雰囲気で,さらに3年生の秋という受験が近づいてきて不安定な中で行われた実践だったのだと思う。

岡崎さんは,その中でも新自由主義的なスポーツ観を持つ子が気になっていた。

その子はスポーツをやる中で,勝利至上主義的な価値観をむき出しにする子だ。

 

でも,その子が特殊なのではなく,その子はたまたま体育授業に,外で形成されたスポーツ観を持ち込んでいるに過ぎない。

別の子は,体育授業というある意味受験とは関係ない科目では,おとなしく「まあ授業だから楽しんでやろう」という。

しかし,いざ受験という現実に入り込むと,そこでは「私は勝つ」という自分と周りからのプレッシャーを感じざるを得ない子たちがいるのだろう。

 

以前に,同じ宮城の矢部英寿さんの実践を分析したときも,同じような主題を取り上げていた。

というか,その主題の「本歌取り」を岡崎さんがしたといってもよい。

つまり,新自由主義的な競争観が蔓延して,「勝ち組」へしがみつき,「負け組」へ落ちることへの恐怖があって,なかなか本音が出せないし,出したとしたら「歪んで」見えるような出し方になってしまう子どもたち。

これは子どもたちの問題であって,同時に社会の問題である。

 

しかし,「答申」を読むと,その先行き不安な社会でも自分で自分を律して,自立していける子どもを育てる必要が書かれている。

それはそうかも知れない。

そして,そのためにキャリア教育をやって,「学びに向かう力」を育てることが大切だという。

それもそうかも知れない。

 

しかし,キャリア教育は「自分らしさ」に拘泥していては,うまくいかないだろう。

また,「学びに向かう力」も読めば道徳教育なのだが,それをどう身につけさせるのかが問われる必要がある。

だって,先からいっているように,社会が競争社会で,湯浅誠さんは「滑り台社会」といっていたぐらいだ(『反貧困』岩波新書・・だったと思う)。

その土台を何とかせずに,その土俵で競争をしながら,他人と協調することが求められる。

 

道徳で迫ったとしても,多感な子どもたちは,本音は出さない。

書いてくる感想文は次の通り。

「部活ではなく,あくまでも体育なんだから,ガチにならずにほめ合いながら絆を深めるといい」。

彼らの授業後の感想文の「いい子」ぶりは,見事な道徳教育の成果だからだ。

この「体育なんだから,勝ちにこだわらずにやる」という価値観と,「勝つことがすべて」という価値観をぶつけようとしている。

 

岡崎さんはこの子たちが本音で語り,価値観を闘わせ,それでその観の変革が起こればいいと考えていた。

しかし,感想文を班で回し読みするとなると,途端に本音が出なくなる。

だから,岡崎さんと子どもたちの一対一のやりとりとなりがちになる。

生活綴方的な,紀南でいうところの「共通の運命観」を育てる手法も難しい。

 

そこへ「きれいな攻撃」という感想文が出てくる。

これは,矢部実践の「きれいなラリー」に通じるものがあり,岡崎さんは「これだ」と思ったようだ。

矢部さんの実践の場合,「きれいなラリー」とは,「みんなでつくるひとつのスパイク」のことであり,「ラリーか,スパイクか」の二項対立を弁証法的に越えたところに出てきた。

「ラリーも,スパイクも」に語り直された。

 

もちろん,これは技術・戦術学習をやると同時に,目指すバレーもまた模索されたのだった。

はじめに目指すバレーがあるのではなく,実践を通じて目指すバレーを模索し続けたのだ。

では,岡崎さんの場合,どうだったのか。

 

僕は記録を読む限りでは,彼らの価値観はかなり揺らいだと思う。

というか,気になる子の価値観が揺さぶられたと思う。

最後の授業の前の時間に,みんなの作文を読むわけにいかなかったので,先生が作文を書いてみんなに読み聞かせた。

そして,練習させた。

そのときはうまくいっていた。

 

しかし,最後のリーグ戦の日の前日,その子が同じ班の子とバトルを行い,その子は「周囲のバッグをボッコボコに蹴飛ばし,帰って行った」。

次の日の朝も険悪ムードで,授業に突入した。

結果,その子は単独プレーを繰り返し,岡崎さんは奈落の底に落とされることになる。

これで実技は終了。

そして,次の時間は教室で振り返り。

 

B5のレポート用紙に1枚,その子も含めてみんなが書いてきた。

それを読むと,子供たちの内面の葛藤がよくわかった。

かなり揺さぶられたようだ。

ただ,その揺さぶりは,技術・戦術の学習の結果とはいえないかもしれない。

 

ところで,なぜこの子たちに勝負する実践が,フラフトだったのだろう。

体育同志会では,フラフトの価値を,一方で,ボール扱いは複雑ではなく,ハドルもあって,作戦を教えるのによい教材という風にとらえている。

しかし,他方で,中村敏雄さんのように,フラフトを教えることはアメリカ的な価値観,まあいってみれば適者生存,社会ダーウィニズムに通じる機能分担制をよしとする価値観を教えることになるだとか,ローテーションや機能分担を巡って議論をするような実践だとかもある。

 

岡崎さんの写真はありませんでした。

制野さんが,岡崎実践のまとめをしてくださったので,その写真を載せておきます。

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制野さんの中学校の実践では,習熟という観点から見れば,当然なのかもしれないが,ローテーションにこだわったチームが勝てなかったという実践がある。

一方,東大附属高校の実践では,機能分担の方がいいという高校生の割り切り方が見られた。

 

そのことを聞くと,岡崎さんは,「フラフトセットを買ってもらったから,使わないといけない」と答えた。

「えっ!?そんな理由?」といってはいけないが,そうなのだった。

かなりチャレンジングだったわけだ。

 

さて,議論であるが,僕はもう一つの会場に張り付いていたので,議論の様子を直接聞いていない。

ただ,まとめなどからは,いろいろな意見が出たことがわかる。

なるほどと思ったのは,気になる子がこのチームの戦力を分析して,「パスプレーは無理だ」と判断していたことへの着目である。

つまり,彼女のプレーが必ずしも批難されるものではなかったのではないかという意見が出ていた。

それはそうかも知れない。

しかし,それがすべてでもないだろうね。

 

学習というのは,やや理想的にいえば,子どもたちだけでは越えられない壁を教師も含めて越えるものだからだ。

中村敏雄さんは,4回触球制のバレーボールでは,データを使って,学習の目標を立てた。

その中には,「全員がスパイクを記録すること」も入っていた。

 

小山吉明さんは,男女共修,異質協同の学習を成立させるには,勝利至上的なスポーツ観を変革するための「学習内容」の設定が必要だと書いていた。

岡崎実践では,体育授業で二つの観を弁証法的に乗り越えるために,技術・戦術課題をどう設定したのか,全員がタッチダウンを決めることを目標にしたのか,など聞いてみたい部分もある。

僕としても,体育授業でスポーツをやる以上,体育授業的な価値追求を技術・戦術学習に求めるのだ。

 

理想は,外のスポーツで身につけてきた「歪んだ」スポーツ観を,体育の授業で共生を目指す中で作り替え,それを外のスポーツへ持ち込んでいくという,「生活体育」の考え方だ。

 

そうはいっても難しいですね。

また考えてみたいと思います。

岡崎先生,ありがとうございました。

すごい取り組みでした。

子供たちがその後,大きく変わったことは聞きましたが,その詳細は聞ききれませんでした。

次の実践にもまた期待です。

 

*慌てて書いたので,文脈が通っていない部分もあるかもしれません。また見直して訂正します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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