体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

愛知で話したこと3 まだまだヴィゴツキー

こんにちは。石田智巳です。

 

前回,ようやくヴィゴツキーの話に入りました。

狭い空間に無理やり入れていったという感じです。

「心理間機能から心理内機能へ」と「社会-歴史的理論」について書きました。

今日は,その続きで,発達の最近接領域からの話です。

では,どうぞ。

 

ヴィゴツキーを有名にしている一つの概念が,発達の最近接領域だ。

これは英語で,ZPDという。

Zone of Proximal Development もちろん,ロシア語はさっぱりわからず。

直訳すると最近接発達の領域だと,中村和夫さんは言っていた。

 

これはよく言われるのが,科学的概念の学習において,一人で到達できる発達の水準と,教師や仲間など他者を介在させてできる発達の水準は,後者の方が高いというか多い。

この二つの水準の差を発達の最近接領域と言い,科学的概念の学習は,この領域の内部で高い水準を目指して行われることになる。

「心理間機能から心理内機能へ」を合わせて考えれば,意図的な教授内容を,教師の指導のもと,他者と協同で学ぶことで到達できる水準は高いということ。

 

先の中村さんは,ヴィゴツキーは「科学的概念の学習において」と留保をつける。

何でもかんでも当てはまると拡張してはいけないということだ。

しかし,いいではないか。

理論を利用するときは常に演繹的なのだ。

だから,それを仮説として体育ではどう「わかる」ことが発達するのかを研究して,そのデータから理論が修正されるか,新たな理論が構築されるわけだ。

 

で,じゃあ,完全習得学習のように,環境を整えればいけるのかと言えば,そうではない。

模倣ができる範囲というのがヴィゴツキーの一つの言い方だ。

 

ところで,発達の最近接領域という概念でいうところの「発達」とは何か。

ここを明らかにしておかないと,身長が伸びることまで含まれてしまう。

 

僕が体育同志会の理論でというか,日本の学校体育の研究でも,考慮されていないのは,この部分で何が発達するのかへの問いかけである。

 

発達にかかわってヴィゴツキーは,二つの立場を批判する。

①科学的概念は,大人の思考の領域から直接子どもへと写し取られるように学ばれるという考え方。つまり,子どもの内面的な発達については問題とされない。

②子どもの元々もっている概念体系(生活的概念)が,年齢とともに太っていき,科学的な考え方ができるようになる。つまり,学校での独自の教授,集団で学ぶことを考える必要はない。

 

①は,これまでも見られたし,これからも見られるであろう知識の教育なんかがそれだ。

写し取られるということは,「コピペ」されるということだ。

高校生クイズでも,芸能人のクイズ王決定戦でも,頭の中の抽斗(ひきだし,村上春樹さんがよくこの漢字を使う)に入れておいて,すぐに出し入れ可能なようにしてあるが,そういうイメージ。

もちろん,知識を受け取ることがいけないと言っているのではない。

ただ授業でそこにとどまるのであれば,パッシブな学びのまま。

だって,暗記するなら一人で黙々とという感じで,他者はむしろ邪魔になる。

 

②は,(ヴィゴツキーが批判した当時の)ピアジェの理論(自然発生)への批判でもある。

計画経済という言葉は,意図的な教授-学習過程に持ち込まれない限り,自然発生的には出てこない概念だ。

だから,「考えさせる教育」が大切だという言い方はなされるが,何でも考えさせればいいというものではない。

自分たちでは乗り越えることができない中味が持ち込まれて,それをみんなで考えて乗り越えるということだ。

 

この考え方は,かつての生活綴方を用いた授業でも見られた。

子どもの踏み外しは,教科の論理ではなく,生活の論理に求められたのだ。

だから,1960年代になると,教科の基礎基本から系統的に学ぶという考えに押されて,生活綴方は一時の勢いを失うが,知識の教授と生活綴方の仕事の接合がうまくいかなかったからだと思う。

綴方教育における他者の存在は,まさにヴィゴツキー的な他者でもある。

 

もう一度,「心理間機能から心理内機能へ」であるが,ヴィゴツキーは,発達するのは,個々の概念がどのように内化されていくのかというレベルではなく,そういった個々の概念の教授の結果発達するのは何かと問う。

 

単純化して言えば,ヴィゴツキーのいう科学的概念の発達とは,「子どもが個々の心理的過程を自覚し,随意的(自由)に支配できるようになること」(中村和夫ヴィゴツキー心理学』,新読書社,p.24)なのだ。

 

そして,科学的概念は,体系性を持つため,その体系のなかで言い換えが可能になる。

「(科学的概念の対象に対する独自の関係は),それが他の概念によって媒介されたものであること,したがってそれ自身のなかに対象に対する関係と同時に他の概念に対する関係,すなわち,概念体系の基本的要素を含んでいるということによって特徴づけられる」(柴田義松訳『思考と言語』,p.269)

 

ここら辺のヴィゴツキーの説明は回りくどく感じるところもあるが,よくわかる。

ヴィゴツキーは,自然発生的概念(例えば,「兄弟」)については,意識せずに使っているけど,いざ説明を求められると,よくわからなくなるという例を挙げている。

また,アルキメデスの法則のような科学的概念は,意識的にならうために,子どもに説明を求めても「兄弟」よりもうまく説明できることがあるという。

 

科学的概念は自然発生的概念(生活的概念)に支えられながら,発達の方向としては逆であるという。

科学的概念が,ピアジェが言うような意味でのシェマに入ってきて,このシェマを変えていく(太らせていく)とともに,意識的に関連づけを行うことで,意識性と随意性を獲得させることになる。

 

だから,先に述べたように,クイズ王の知識がいけないのではなくて,それが自分のシェマをどう変えて,何らかの既存の知識と結びついて自分なりに言い換えが可能になっているのかどうかが大切になるのだ。

 

今日もやっぱり終わりませんでした。

 

 

 

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