佐々木賢太郎さんの息子さんに会う
こんにちは。石田智巳です。
24日の日曜日は新宿に行っていました。
体育同志会の全国常任委員会でしたが,途中で抜けて小滝橋通りのタリーズ(コーヒー)へ向かいました。
佐々木賢太郎さんの息子さんに会うためでした。
会って,いろいろお話を聞くことができました。
今日はその話です。
では,どうぞ。
話すと長いのだが,僕は和歌山に住んでいたときに佐々木賢太郎さんの研究を始めた。
佐々木さんといえば,日本の戦後民主体育の礎を築いた実践家(の1人)であり,教育科学研究会の体育部会(後の身体と教育部会)の理論的支柱(実践の中の理論的支柱?)となった人だ。
先々週読んだ『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号の久保健さんの論考にも,そのようなことが書かれている。
以前も書いたことがあるが,和歌山大学に赴任して,ひょんなことから教育史を研究する会に入れてもらった。
しかし,教育史なんてやったことがない。
そんなときに,会議や演習をやる部屋に山積みになっていた段ボールに佐々木賢太郎さんの蔵書が眠っていた。
これらは,引き取り手がなくて,しかたなく置きっぱなしになっていた。
ガリ版刷りの印刷物もあり,佐々木賢太郎研究を始めた。
単純にいえば,一次資料を使って佐々木賢太郎さんの研究をした人がいなかったので,僕がやることにした,ということだ。
佐々木さんが亡くなったのは,1994年のこと。
僕が研究を志したのもその頃。
体育同志会には,生前の佐々木さんを訪ねて白浜まで詣でた人たちが少なからずいる。
和歌山支部の50代かそれよりも上の先生たちは支部のメンバーとして会っている。
僕は会ったことがない。
だから,書かれたものから徹底的に実証してみようと思ったのだ。
といっても,資料が断片的にしかなかったので,いろいろかき集めてまずはお勉強。
そうして,最初の論文は,佐々木さんが紀南作文教育研究会に帯同するまでを描いてみた。
これは,1次資料と2次資料が混ざったような形だったので,何となく遠慮して大学の紀要に載せた。
そして,今僕が編集委員をやっている学会誌にも載せた。
そうしてあるときにある方から連絡を受けた。
それが,佐々木さんの息子さんだった。
そして,貝の収集家であり,研究者でもあった佐々木さんの成果を本にして出版されて,それを送ってもらった。
その本は,佐々木賢太郎著の本『歌仙貝にでる貝の今昔 』(丸善出版サービスセンター)である。
その編集後記に息子さん(といっても,僕よりも一回り以上も年上)が,僕の名前を出してやりとりがあったことを書いてくださった。
つまり,佐々木賢太郎著の本に僕の名前が載っているのだ。
ところが,僕が今の大学に移動してしまったため,メールアドレスはわからなくなり,ただ年賀状でのやりとりが毎年行われていただけとなった。
そして,今年の年賀状を昨年の暮れに書いていたときに,息子さんの住所を見て,「あれっ」って思ったのだ。
僕は新宿に行くときは,東京駅から中央線に乗り,新宿駅の西口を出て,北へ上がって行く。
それから,途中で西に斜めに進んでから西新宿8丁目の事務所に向かう。
常任委員会の1日目が終わって食事に行くときは,小滝橋通りの方へ向かうのだが,たいてい百人町の交差点の方から行くことになる。
それでピンと来た。
つまり,新宿事務所と息子さんの家は歩いても10分程度もかからないところにあるのだ。
それで,そのことを年賀状に書いて,一度お会いできれば・・・ということも書き添えておいた。
そうしたら,年明けに僕の家に息子さんから電話があった。
そして,電話,メール,封書などでやりとりをして,この常任委員会で上京するときに会う運びとなった。
縁というのは本当に奇なるものだ。
ということで,タリーズにたどり着く前に今日の話は終わってしまいました。