体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 久保論考を読む1にコメントが。

こんにちは。石田智巳です。

 

一昨日アップした記事の僕の疑問に対して,久保さんが回答してくれました。

なので,今日はそのことについて書きます。

では,どうぞ。

 

13日にアップした記事では,久保さんの論考を読んでよくわからなかったことを書いた(『たのしい体育・スポーツ』 1.2月合併号(№298) 久保論考を読む1 )。

久保さんが,冒頭に「しかし,戦前の体育の本質は本当に『身体の教育』だったのだろうか?」と問うたことの意味がわからなかったのだ。

 

今,「冒頭に」と書いたが,その前もある。

それは,「体育教育の教科書類では、一般に,戦前の身体の教育から戦後『新体育』への変化は,『身体の教育』から『身体活動を通しての教育』への変化であると捉えられている」という書き出しとなっている。

その後,「しかし,戦前の体育の本質は・・・」とつながっているのだ。

 

僕のブログでは,「近代体育」の時期区分の問題,つまり「近代体育」をすべて同じ扱いにしていいのかということと,「身体の教育」の意味内容が論点なのかと思った。

そして,ブログを公開したのだが,その前の日にちょうど久保さんから別件でメール連絡を受けたので,その返事のところに「論考の内容に上手く理解できなかったところがあるので明日のブログを見てほしい」と書いておいた。

 

そうしたら,久保さんはその日の夜に,丁寧に解説したメールをくださった。

それを載せておきたい。

以下,久保さんからのメール。

 

「ブログ、読みました。丁寧に読んでくださってありがとうございます。下書き
で16枚になったものを無理矢理6枚に縮めたので、短絡や舌足らずの ところがず
いぶん出てきてしまったと反省しています。
 でも、石田さんの「読み」よりも、久保の思考は単純です。」


「1.戦後「新体育」から抜け出そうとした人々が(今日の体育教育の教科書類
が)「身体の教育」から「身体活動を通しての人間形成(教育)へ」と言 う場
合の「身体の教育」とは、後者が身体=手段論であることから考えると(「身体
の教育」ということそのものの理解はもっと多義的でしょうが)、 「身体を目
的とした教育」であると理解しています。
 久保が「戦前の体育の本質は本当に『身体の教育』だったのだろうか?」とい
う場合の「身体の教育」はそういう意味です。」

 

つまり,「身体の教育」を「身体を目的とした教育」だとすれば,戦前,戦中の体育は,目的としていなかったということである。


「2.久保は、「日本の近代学校体育」という場合には明治初期から第2次世界大
戦終結までの日本の学校体育をさしています。そしてそれは、その成立 期か
ら、①普通体操に代表される「身体を目的とする体育」と,兵式体操に代表され
る「身体を手段とする体育」との絡み合いとして展開してきて、ス ウェーデン
体操の導入や、体操遊戯取り調べや、陸軍省と文部省との合同調査(=調整・妥
協)や、学校体操教授要目や、大正期の自由主義的な教育 や、昭和初期の自然
体育などの紹介や、等々の様々な紆余曲折はありながらも、その絡み合いは変わ
らず、そして最終的に、国民学校の体育=体錬科に 至って、城丸の言うように
(篠原の身体の意志的形成論を理論的根拠にした)「身体の(を通しての)錬
成」の体育を本質とすることに帰結した、と考 えています。その意味で、城丸
の言うように「近代日本の学校体育は人々のからだをつくったことは一度たりと
もない」(そのための条件も保障されな なかった。したがって、「肉体の錬
成」は貫徹され得ず、重点目標は身体を通しての精神の錬成にあった)と言える
と考えています。」

 

このあたりではっきりしてきた。

久保さんの解説では,明治から終戦までの約70年間は,教科書的には「身体の教育」期として括られているが,「身体の教育」といえるのは,その中でも初期の頃,日清戦争の前に兵式体操が取り入れられる頃までである。

兵式体操導入以降や戦争が激化していくなかでの教育は,「身体を手段として精神を鍛える体育」であったということだ。

そのなかにも,大正自由教育のようなときもあったので,すべてを括るわけにはいかない。

 

それでも,戦前,戦中の到達点が国民学校期(1941(昭和16)年~終戦)の体練科の時代にくることになる。

この時期はまさに「精神面の強調」がなされた。

城丸さんは,武道が学校に取り入れられるときでも,武道が教練として有効であったのは,武技を身につけるという点に求めていない。

「人間丸ごとの服従の精神の育成」であったと述べている。

これは,まさに学校での「合法的な体罰」とつながっているわけである。


「3.そして、そうした考え方を出発点として、戦後初期の「身体論による新体育
の基礎付けの議論」、「アメリカの経験主義教育論に基づく新体育=生 活体育
を巡る議論」、「戦後新体育を克服して1958要領の体育の考え方や、運動文化論
や、からだづくり論が出てくる論理」などを読み解こうとし たのが、あの論稿
のつづきです。」

久保さんの解説は,結ばれる。

 

ちなみに,戦後の体育は「身体活動(あるいはスポーツ)による教育」,つまり身体活動やスポーツを手段とした教育とされるが,その場合の目的はまずは「民主的な人間形成」であり,「技能」であり,「体力」であった。

それが,「スポーツの教育」となるのは,学習指導要領的には1977年(78年)。

しかし,運動文化論はいち早く1960年に「運動文化の追求を自己目的とした教育」という定義を与えている(丹下保夫)。

 

僕はこれまでも,「戦前,戦中,戦後」という言い方をしているが,この「戦争」は当然第二次世界大戦のことだ。

しかし,戦前という言い方は,第二次世界大戦の前ではあるが,江戸時代のことを戦前とはいわない。

明治になってよその国と戦争ができるような国家になってからという意味である。

ところが,「戦前」を使うと,その前にあった戦争,日清,日露,第一次世界大戦満州事変日中戦争などの時期は,戦争中であっても「戦前」となる・・・。

いらぬことが,頭をよぎってしまった。

 

何はともあれ,解説してくださったおかげで,よくわかりました。

久保さん

ありがとうございました。

 

 

 

 

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