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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 1.2月合併号(№298)が届きました。

こんにちは。石田智巳です。

 

冬大会から戻った29日の日には,『たのスポ』1.2月号が届いていました。

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特集が「自分のからだと向き合う」でした。

僕はようやく冬大会の重圧から解放されたので,しばらくは同志会活動はお休み(冬休み)と思っていましたが,この日(29日)についパラパラとめくってしまいました。

そうしたらいろいろ思うことがあったので書くことにしました。

では,どうぞ。

 

29日の朝は,実家で冬大会の狭間実践のまとめを書いているときに,グループ学習の意味を再考できたように思えた。

帰りの車の中でも,実践のことについて考えていたので,四日市東から鈴鹿までの東名阪のいつもの渋滞もあまり気にならなかった。

 

狭間実践は,実践中に子どもたちがどんな意味の問い直しをしたのか,狭間さん自身はどんな問い直しがあったのだろうか、なんてことが気になった。

これをナラティヴ・アプローチに引っかけてみれば,どんな語り直しがあったのかということになる。

 

語り直すということは,矢部さんのバレーボールの実践ではないが,「スパイクか,ラリーか」という二項対立が,「スパイクも,ラリーも」という弁証法的な関係に置き換えられるわけだけど,そのためには食い違いやズレが必要になるのだ。

それは,子どもと子どものズレ,教師と子どものズレなどである。

 

ズレがなかったとしたら,あるいはあったのかもしれないけど顕在化されなかったのであれば(=なかったということだけど),実践における「意味の問い直し」はなく,語り直しがないことになる。

狭間実践は,そういった観点から,点検されて語り直される可能性が大いにある。

 

ということを考えていて,『たのスポ』1.2月号をめくる。

パラパラ。

今回の号は「からだ」という運動文化論のあまり得意とは言えない,ぶっちゃければ「苦手な」守備範囲を攻めてきた。

実は6月号も「いのち,からだ」の特集があったので,それをさらに深めようとしたのだ。

しかも,合併号で。

歯を食いしばって読まなければならないだろう。

 

だから,パラパラとめくって,後ろの方の力を抜いて読めるところに目を通す。

最初に読んだのは,「読者の声」である。

愛知の堤さんが書かれている。

これは面白いとおもった。

堤さんがというか,この号が取り上げているのは,10月号の特集「私たちの学習指導案」である。

 

学校現場の指導案が似てくること,そして10月号に掲載された体育同志会の指導案が「わかる,できる,関わり合う」目標が設定されて,同じような形式で書かれていることを指摘している。

この形式がしばしば内容を規定するところがあるので,それだけでは魅力ある指導案にはならないということだろう。

これは僕も同感。

 

ナラトロジーでも,形式が内容を規定するといっている。

ものすごく単純化していえば,水戸黄門の話のストーリーは毎回違うけど,毎回同じ展開になるようなものだ。

もっといえば,多くの時代劇は,勧善懲悪の物語という意味では同じなのだ。

 

そして,堤さんはその長い教師経験で出会った授業を紹介する。

それが詩の授業だ。

僕は,この話を聞いたことがあるし,堤さん自身の授業としても聞いたことがある。

規律訓練的な指導の対比として語られたと思うが。

 

その授業の指導案では,指導過程(本時の展開)は7行しか書かれていないという。

しかし,「教材について(いわゆる,教材観)」を読んでみる。

そうすると,「取り上げた詩についての思いや背景が見事な文章で豊かに綴られているではないか。だから,どんな子どもたちの意見や感想も,授業の文脈に位置づけ,子どもと子どもをつないでいくことができるのである」とかかれている。

 

順番が前後しているが,堤さんは,「教材観,指導観,子ども観など,実践者がいかに子どものことを深く理解しているか,指導する上で何を重点に置いているのか,どんなに広く深く教材研究をしているか」が大切だという。

その通りだと思う。

 

しかし,これは大学の授業で模擬授業をやるぐらいでは身につかない。

だから,僕はその大切さを述べて,実際の実践記録の「教材観,子ども観,指導観」について書かれている部分を読ませて,実践のストーリーを描くことの重要性を学生に伝える。

しかし,これでは絶対に伝わっていないと思う。

要するに,学生からすれば目の前に子どもがいない状況で,そんなこと言われてどうするの?

ということである。

だから,僕もアリバイづくりのように「それについてはやりました」という程度。

 

しかし,教育実習でも子ども理解と教材研究とを結びつけるのは難しい。

とりわけ,教科書がある授業は教科書に沿って行われ,そもそも教育実習は先生の授業の続きをやることが多いため,自分の強い思いが反映されるということは少ない。

だから,本時の展開をもれなく書いて,実際に授業をやって,批評を受ける程度にしかならない。

その批評は,おそらく「教材観,子ども観,指導観」とは関係のないところでなされるだろうし。

 

だから,やはり民間教育研究団体で鍛えてもらうしかないだろう。

今回の狭間さんの実践もそういう意味で揉んでもらえたのだと思う。

 

堤さんの書かれたものを読んで,実践をやる前に必ず「教材観,子ども観,指導観」を書いてみて,実際に授業をやってそれが次の実践に向けて書き直されることが大切になる。

最初に書いたものと,書き直されたものとの差が自分の成長になるということだろう。

だから,実践記録を書き換えること(ナラティヴの語り直し)が,自覚的になされる機会になるのだ。

 

今後,みなさんやってみてください。

 

 

 

 

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