体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

成田龍一『<歴史>はいかに語られるか』を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,内田樹さんと高橋源一郎さんの対談(司会を含めた鼎談)について書きました。

今日は,たまたま買っておいた本を読んでいたら,面白いことにあたりました。

「こういうことがあるんだなあ」と思ったのでここに書いておこうと思います。

では,どうぞ。

 

高橋さんが,文学の語り方は50年しか持たないという言い方をしていた。

戦後1947年は太宰治『斜陽』と石坂洋次郎青い山脈』から始まったという。

そんなことから,『青い山脈』の話を膨らませて書いた。

今,手元に本がないから,あてずっぽうなこと書くんだけど,1947年の50年後は1997年になる。

だいたい,世紀をまたぐ頃といえばいいんだろうが,戦後50年が終わって、次の話型はどうなるんだったっけ。

 

うろ覚えだけど,幽霊が出てくる話だったような気がする。

手元に本がないというのは,『僕たち日本の味方です』がないのであって,『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』はある。

それをたぐってみても,わからない。

 

でも,川上弘美さんの『真鶴』が出てきて,村上春樹さんの小説のことも話題になっていたと思うんだけど。

司会の渋谷さんが,村上さんの話を出して,高橋さんが「幽霊」の話につなげていったような気がするのだが,それが探せなかった。

いやだね,これだから。

 

本というのは,僕は気に入った内容のある頁は肩を三角に折り,鉛筆で線を引いておく。

一つの話が丸々面白かった場合,その頁を縦半分におっておく。

そして,終わったあとに,その印のついている部分を中心に読み返すことになる。

読んでいない本(読んだ本とは別の本)には,その印がないから,覚えているのに探し出せないジレンマがある。

まあいいや。

 

今日書きたかったのはそのことではなくて,成田龍一さんの『<歴史>はいかに語られるか』(NHKブックス,2001)を読んで面白かった部分があるので,それを書こうと思ったのだった。

この本のサブタイトルは,「1930年代の『国民の物語』批判」である。

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僕は,体育科教育学という領域で研究をしている。

体育における「認識」をどう考えるのかという研究である。

興味があるのは,運動をする人の認識の深まりをどうとらえるのかであるが,歴史にも興味がある。

佐々木賢太郎さんの戦後の生活綴方を用いた実践や、佐々木さんの教育思想がどう形成されたのかに興味がある。

なにしろ,実践的に体育と認識を問題にしたのは,佐々木さんが日本で一番早いのだから。

だから,そういった考え方がどうやって出てきたのかを調べることに興味がある。

 

そうして,いくつかの論文を書いた。

ネット上にもあったりするが,このときの僕の方法は徹底的な実証にあった。

一次資料にあたり,書かれている事実から,佐々木さんの思想がどうやって形成されたのかを実証していく。

それはそれで必要なことだと思ってやっていたが,考えてみれば,僕は歴史を記述する方法について学んだわけではない。

 

基本的に,佐々木さんが書いたものは佐々木さんの語りなわけだから,その語りと事実は別物だともいえる。

だとすれば,事実はどこにあるのか?

なんて考えても仕方のない問いが出てくる。

 

考えても仕方がないというのは,エスノメソドロジーやナラティヴ・アプローチを勉強していたときに,社会構成主義(社会構築主義)だとか,単なる構成主義の考え方にえらく納得してしまったからだ。

この構成主義は,本質主義と対立する考え方である。

歴史の本質主義は,どこかに客観的な歴史があってそれを捕まえるという立場である。

 

沖縄の集団自決があったかなかったか,南京大虐殺で30万人殺された,そんな規模ではなかった,とかいうので論争が起こるが,あったかなかったか,実際どうだったのかというのは,本質主義である。

カントのアンチノミーじゃないけど,あった,なかっただけでなく,より小さな規模であったとかは,経験した人によって等価だ。

多くの場合,その場にいなかった他者(学者となぜか政治的な発言をする人)が歴史的事実を語ろうとする。

これは誰のために?

 

でも,沖縄ではもう少なくなったが戦争体験者が話をしてくれる。

僕もひめゆり部隊の人から話を聞いた。

沖縄の人でも,多様な語りがあるだろうね。

悲惨な戦争があったという語りの方向性は同じでも,その語りに対する思いというか悲惨さの具合は人によって違うかもしれない。

そのときに,君の歴史認識は間違っているとはいえない。

これが構成主義の立場。

 

だから,本質主義で誰が誰のために?というのは,国家が国民統合の物語を作ろうとしているとか,マルクス主義的に虐げられた人たちの物語を作ろうとしていると答えることができる。

しかし,そこには個人はいない。

あるいは,都合の悪い個人の語りは捨象される。

捨象されるのは,かつての沖縄の人であり,今の沖縄の人でもあり,従軍慰安婦であり,福島の人である。

 

だから,正史に対する稗史に目を向けるだけでなく,そういう大きな物語に回収されない小さな物語に目を向ける必要がある。

実践記録でも,教師の編む物語から外れる子どもの物語もあるはずで,その物語に目を向ける必要がある。

というようなことをこの本を読んで学んだ,というか再認識した。

 

しまった。

何で,この本が面白いと思ったのかは違う話だった。

つまり,国民統合の物語は,1930年台の戦争が激化していくときに作られるのである。

その前は,当然明治維新のころだ。

だから,1870年頃。

そして,1930年代の次に来るのは,米ソの冷戦が終わって世界がグローバル化する1990年頃だという。

日本ではバブル崩壊でもよい。

国民国家の変容期は,60年周期でなされるということだ。

 

昨日の,文学のテイストが変わるのは50年というのと同じようなことをいっているでしょ。

これが面白いと思ったわけ。

 

なお,この人が取り上げている語りには,昭和初期の生活綴方もあります。

語りそのものを批判的にとらえているので,少し勉強になりました。

 

 

 

 

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