「大貧民・大富豪」で社会を考える。3
こんにちは。石田智巳です。
今日は,「『大貧民・大富豪』で社会を考える。」の続きです。
竹田青嗣さんの本と,水野和夫さんの本を読んで考えたことで授業をしようと思ったので,そのことを書きます。
では,どうぞ。
前回の「考える。2」では,「大貧民・大富豪」といわれるカードゲームをやったことを書いた。
このゲームは本当に盛り上がる。
貧民・大貧民の中にはあきらめのような声を出す者もいた。
ゲームというのは,それが終われば,富豪も貧民もなくなる。
それがゲームたる所以だ。
スポーツもゲームではあるが,負けたとしてもそう簡単にきれいサッパリと切り換えるわけにはいかない。
高校野球のように,負けたら終わりとなれば,もう少しことは重大だ。
プロ野球は職業だから,そのまま処遇に反映する。
PLAYって日本人にとってみたら,もっと真面目だよね。
アメリカ人にとっては,「遊び」だけど。
さて,このゲームは何に似ているか?と学生に問う。
「人生」「社会」など意見が出る。
その通りだ。
ここからは竹田青嗣さんの本『中学生からの哲学「超」入門」(ちくまプリマー新書,2009)から話を進めた。
このゲームは富豪,平民,貧民という階層に分けているが,この階層を移動できるところにおもしろさがある。
その意味で,このゲームは近代社会に似ている。
近代以前の社会は,日本の場合は明治より前,つまり江戸時代であるが,江戸と明治の違いの一つは,階級社会であるかないかの違いだ。
つまり,身分が固定されている(江戸)か,いない(明治)かだ。
そもそも身分が違う人たちが一緒にゲームをするということはない。
そして,もう一つこのゲームは富豪と貧民に別れるが,これは資本主義社会がモデルとなっている。
欲望をかき立てて,這い上がることを楽しむゲームである。
現実の社会もまた,チャンスは少ないにしても,ベンチャー企業を興して,這い上がることもできる。
一方,家電メーカーの一流企業やダイエーのように,安泰とは行かない現実もある。
竹田さんは,社会を「ルールの集まり」と見る。
だから,社会というゲームを成り立たせているルールは何かを問う。
農耕の始まりによる食べ物などの貯蓄が始まると,それを守る人とそれを奪う人たちが出てきて,社会は闘争状態になる。
近代以前の社会は,「ケンカ」に負けた者は,勝った者の言うことに従うというルールがあった。
サンフランシスコ体制において,アメリカに負けた者(日本)は,勝った者(アメリカ)のいうことに従うというルールは今でもある。
だから,イギリスでクロムウェルによる議会派の勝利,ホッブスの「リヴァイアサン」,ルソーの「社会契約説」などは,国家と国民,社会と個人のあり方を考えようとして,近代社会の基本的な考え方となった。
そして,社会における自由というのは,誰かに与えられた自由ではなくて,人々が自由の相互承認をするところに特徴がある。
このカードゲームもまた,ルールの下で対等・平等にゲームをして,勝ち負けを決めることができる。
だから,あまり階層が固定されないような工夫もある。
成員同士が,納得したルールを取り入れることができるのだ。
だから,ルールは作っていけるし,それに参画することが社会に出るということであり,大人になるということは,自分の不利益に対して自己責任といわずに社会に働きかけられる人のことをいうのだ。
竹田さんの話を引き取るとザックリとこんな感じである。
その通りだと思う。
しかし,水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書,2014)を読むと,どうもことはそんなに簡単ではない。
水野さんは,その本の中で,利子率=利潤率という言葉を用いて,これが2%以下の社会というのは,資本側が利益がほぼない状態で,つまり,資本主義の死に近いという。
日本は,1997年に利子率が2%を下回って以来,ずっと下回ったまま。
2014年1月末で0.62%だそうだ。
実は,この利子率の低下は1970年代に始まったそうだ。
オイル・ショックとドル・ショックのことだ。
ここで,原油価格が上がっていく。
1974年の日本では,利子率が11%を越えていた。
高度経済成長はここで終わって,利子率は下降する。
さて,資本主義とは,資本が自己増殖する運動のことである。
この資本が増殖する,つまり利子率が上がるということは,単純にいえば,労働力の安いところの原料や食料や労働力を搾取して,製品を作って高くうることによって成し遂げられてきた。
ところが,メイドインジャパンが,メイドインコリアになって,メイドインチャイナになって,さらに,インドネシア,ヴェトナムなどと商品を作る国が変わってきた。
それは,どんどん安い労働力や原材料がある場所に工場を移していったということだが,その途中で,BRICSのように新興国が出てきた。
水野さんは,帝国主義的な空間の拡大(1500年代頃から)は必ず終わるし,資本主義もそこから土地,そして,情報,金融のような実体のあるようでないものを対象にしてきた。
日本では土地を中心とする不動産が実体が伴わないような値上がりをして,バブルが崩壊した。
アメリカでは,サブプライムローンの問題から,リーマンショックというバブル崩壊が起きた。
今では,資本家が資本の自己増殖をはかるために,何をしたかといえば,資本と労働の取り分を変えたということだ。
つまり,労働の側の取り分を減らしたのだ。
だから,「実感なき好景気」というのもあった。
そして,取り分を減らしたのは単なる賃下げだけでなく,派遣労働者,非正規労働者を増やしたのだ。
資本家の搾取は,かつては(今も)途上国の原材料や労働力であったが,アメリカ国内ではサブプライム層であり,日本国内では中間層である。
日本は,戦後,何もなくなったからケインズ的な計画経済,大きな政府による市場のコントロールで,つまり社会主義的な政策で発展を遂げた。
そのときは,一億総中流といわれた。
昔は,最高税率も70%近くであったが,今は40%程度である。
金持ちを優遇しているのだ。
「大貧民・大富豪」のようだ。
そして,派遣労働者を入れることで,中間層を取り崩し,格差社会を作ろうとした。
水野さんは,この大量にいるはずの中間層を壊して,年収200万円以下の層を増やしていることに危機感を表明している。
そして,資本家や株主たちのための資本主義,つまり,「資本のための資本主義」は民主主義を崩壊させるという。
「民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があってはじめて機能するのであり,多くの人の所得が減少する中間層の没落は,民主主義の基盤を破壊することにほかならない」(42頁)。
小泉元首相のころから(もっと言えば,中曽根さんのころから)の新自由主義は,経済的な格差を作りだし,成長神話を垂れ流してきたが,実は,民主主義の破壊がねらいでもあったといえる。
だから,道徳を教科にして,ものをいわぬ人を作るのが急務なのだ。
これは戦争前の時代と同じように,ものがいいにくい状況とも言えるが,社会を教えるということは,こういうことも含めて教えられないといけないのだ。
もちろん,水野さんの見方は1つの見方でしかないという言い方もできる。
しかし,儲かっているのはグローバル企業であって,その企業は日本には税金を落とさないようにグローバル化しているし,現実に格差は開いている。
学校の役割は,大人にすることであり,社会を教えることである。
それは,多様な意見の中からみんなにとっていいものを作り上げること,自己の不利益(固定された大貧民)に対して社会に訴えて働きかけられる力をつけることだといえる。
しかし,水野さんの本を読むと,何だか気鬱になってくるのは僕だけではないと思います。