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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育実技で,できない子が一人になったとき。

体育・スポーツ 授業でのこと

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は授業でダブルダッチをやった話です。

ちょっとこういうシチュエーションは嫌だなあと思うことがありました。

そのことを書いてみたいと思います。

 

写真は,昨日の夜飲みながらテレビを見ていたら,やっていてこれは面白いと思って写真に撮りました。

とっておけばあとで思い出すだろうと思ったのですが,全然思い出せません。

多分,話しているナラティヴが面白かったのだと思います。

ここまで覚えていないとなるとどんな記憶力だかねえ。

まさに,「相当衝撃を受けたというのは間違いない」です。

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では,どうぞ。

 

中等の保健体育科教育法の時間は半分が講義で半分が実技である。

実技は,最初にダブルダッチを持ってくる。

前期は,この時間にカードで割り箸を割る授業をやって,その後ダブルダッチをやった。

後期は割り箸割りは,僕がやって見せて,学生二人にやってもらい,意外に難しいということだけをわからせて終わり。

 

そしてダブルダッチ

手順は,過去にも書いたので,そちらを参照してほしいと思うが,とりあえず書いておく。

大縄を使って全員がリズムよく跳ぶ。

これはほぼ問題ない。

次に反対回しにして同じように跳ばせる。

ここで躊躇する学生,引っかかる学生,騒ぐ学生が出てくる。

 

ダブルダッチで入るのが難しいのは,2つの縄が交互に回っているのだが,最初にこの反対回しの縄を跳ばないといけないからだ。

これをむかえ縄という。

だから,縄一本でむかえ縄を跳ぶ練習をする。

そして,そのときに入り方,リズムなどもいろいろやるのだが,ここではすべて省略。

 

ただ,学生にダブルダッチをやらせるのは,教師が指導するということは,ある程度子どものつまずきとそれを乗り越える指導法をもっておく必要があるということを教えたいのが1つ。

もう一つは,体育の授業では,子どもたちが「わかってできる」ことが大切だということを教えたい。

 

さらには,ダブルダッチで入って跳ぶためのリズムも考えさせたい。

できる学生は,入れなくて困っている学生に,「今」,「今」とか,「はい」,「はい」とか声を掛けるが,当の跳べない学生にはその掛け声では遅いのだ。

 

この授業のダブルダッチでは,だから指導者が学生(や子ども)をできるようにすることは目的のひとつでしかない。

そのため,それなりにまわりくどいこともやる。

中等の授業では,入って3回跳ぶことが目標だ。

3回を全員が跳べて,ダブルダッチを指導する理屈がわかることが目的となる。

 

前回の授業では,全員が跳ぶことができた。

今回,終盤に,どうやら二人の学生が3回跳べていなかったのだが,一人の学生のグループから歓声が上がった。

一人の学生が残ってしまった。

その彼は,柔道部でそれなりに身体は大きいが,重量級というわけではない。

それで,入れるのだが,1回しか跳べない。

 

なんとなく,こういうシチュエーションは嫌だが,向き合うしかない。

そしたら,その彼は,自分の置かれた状況を充分認識しつつも,諦めたり恥ずかしがったりせずに,ブツブツつぶやきながら繰り返しチャレンジした。

いわく,「こんなできない思いをしたのは初めてだ」,「今日は徹夜でやるぞ」など。

「できない子の気持ちがわかってよかった」というきれい事を言っても始まらない。

 

ずっと続けたが,結局,授業の終了時間をむかえたので,終わりとした。

授業が終わったら,彼とより仲のいい仲間でまだ練習をするという。

僕は,金曜日の昼休みは学生と劇づくりをやっているので,体育館を後にした。

その後,彼に会ったのは,次の週だったが,結局昼休みに練習してできるようになったという。

 

彼はよっぽどできないことが悔しかったのだろう。

しかし,練習すればできるという見通しもあったのだろう。

だから,練習してできるようになった。

そして,再び,こんなに苦労したのは初めてだと述べた。

 

彼のようなポジティヴな性格であればいい。

衆人環視のもと,一人できないでいるという状況になったら,僕はどうするのだろう。

恥ずかしいから,フェードアウトするのだろうか。

それとも,彼のように顔色変えずに,やり続けるだろうか。

 

これが,子どもだったらどうするのだろう。

できずに終わった子どもになんて声を掛けたらいいんだろう。

気の利いた声かけはできないような気がする。

「次またがんばろうな」という声かけでは無責任だ。

二人で夕日を見ながら,「できるまでやるぞ!」と熱く語る柄でもないし。

 

でも,少なくとも「できるようにしたい」と思うんだろうな。

よっぽど,拒絶されていないのであれば。

救いなのは,友達に教えてもらってできるようになったことだ。

彼も,これまでの人生で一人でがんばることを求められたかもしれないが,今回,教えてもらってできること,つまりヴィゴツキー的な他者の存在の大きさも認識されたであろう。

 

だといいのですが・・・。

 

 

 

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