体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

教師の技を看るということの難しさ

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,金曜日に行った2つの授業の話です。

授業はやっぱり難しいものだと思いました。

では,どうぞ。

 

写真は,うちの近くにある平城京大極殿

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金曜日は2限が保健体育科教育概論という授業で,3限が教職実践演習(中高)という授業だ。

ともに「教職に関する科目」である。

順番的には当然,2限をやってから3限をやるわけだが,話の順番は3限から2限に戻ることにする。

 

3限の授業は,教職の仕上げの授業になるのだが,前半は教育実習の振り返りが中心となる。

これまで,「私の教育実習物語」ということで,教育実習に関するテーマを決めて話をさせた。

どんなナラティヴとなっているのかは,人それぞれで面白かった。

生徒全員の名前を覚えることで,生徒と仲良く慣れたこと。

先生にいろいろ教えてもらえたこと,厳しい中にも優しさがあったこと。

学校の方針のため,やりたいようにできなかったことなどだ。

 

今回は,教科指導に関して,「私が見たすご技」を持ってきて交流することにしていた。

やり方は,校種(中高),教科(科目)で別れて,それぞれの実習校で見た教師の授業で使われている技や,自分が取り入れたいと思った技を紹介し,面白いと思ったものを模擬授業のようにしてみんなに伝えるというものだ。

 

昨年,小学校の教職実践演習でやったときは,いろいろ出てきた。

しかし,高校の授業ではあんまり見られないかなと,やや心配だった。

高校の場合(そして,大学も),内容の知識の質量が,生徒に伝える方法に勝ることがよくある。

指導方法は問わずに,教科書の内容を与えることを優先することになる。

なので,模擬授業はできるところはやって,できないところは交流しあった内容を紹介するということにした。

 

保健体育の学生たちは,「あんまりなかった」という。

いや,あったのだが,「先生が子どもを集めるとき」とか,「実習生の指導案を見て,即座にアドバイスが送れること」とかであった。

さて,これをどう考えればいいのか。

 

そこにバレー部の学生がいたので,次のような例を出して話をした。

ときどきテレビでワールドカップ,世界バレー,オリンピックなどをやっているが,そこでは世界最高峰のバレーが行われている。

それをテレビで見たときに,みんなが「すごい」というだろう。

しかし,バレーを授業でしか経験していなかった人と,バレー部で高校日本一になったあなたが同じバレーを見ても,見ているものは違う。

あなたはより分析的に,戦術行動と絡めて見てすごさがわかるだろうが,バレーを経験していない人はすごいサービス,すごいスパイク,すごいレシーブというような個々の技術のすごさしか看ることができないかもしれない。

 

それと同じで,教師の技がすごかったのに,分析的に見ることができなかったのかもしれないし,本当にすごくなかったのかもしれない。

それはわからない。

 

ただ,子どもを集めることや,指導案の中味からアドバイスを送る,という言い方ができるのであれば,その何がすごかったのか,そこから自分は何を引き取ったのかを具体的に話せないようであれば,自分のものとはなっていないということだ。

 

今回,いろいろ工夫をして先生のすごさを語ってくれたり模擬授業形式でやってくれたのだが,共通していたのが次の2つ。

高校の古文の授業では,古文の内容に入る前に登場人物の関係を絵にしていたという話であった。

歴史の授業では,黒板の真ん中にスクリーンを降ろして,横の空いたスペースには,まさに図を書いて,補足説明を加えながら進めるというものであった。

 

これは,イメージを大切にするということでもあるが,特にこの歴史の授業では,説明に終始せず,その途中途中に発問が挟み込まれて,話し合いと発表が行われるようになっていたという。

まさに,アクティヴ・ラーニングだ。

歴史の授業や公民の授業,あるいは古文の授業なども教科書の中味を説明するような授業が多く,パッシヴな授業になることが多い。

 

そういう感想を持ちながら,聞いていてふっと思ったことがある。

後期になって,とりわけ2限の保体の授業では,話し方をコントロールすることで,学生が話をよく聞くようになった,ということを以前のブログに書いた。

これも1つの技術なのかと思うのだが。

 

で,今日の2限の授業も,ややざわついて落ち着きのない始まりだったが,そのうちに誰も話す者はいなくなり,いい雰囲気になってきた。

斎藤喜博さんの言い方を借りれば,「教室にピーンと一本の糸が張ったような」緊張観のある雰囲気となった。

ただし,授業の前から,毎回このテーマ(体罰・暴力と体育教師)をやると,学生があんまり聞いていないのが気になってはいた。

でも,いい雰囲気となって,私の語りを学生はしっかりと受け止めてくれている。

今日は行けるかと思ったが,徐々に学生が眠りに落ちていくのがわかる。

 

途中で,「体育教師という表象」の話になるとみんな起きて聞いていたが,それまでは睡眠の時間だった。

で,やっぱりダメだったかと思っていて,午後の授業のときにわかった。

単純な話だが,パッシヴな授業なのだ。

だから,語りはよくても,中味がよくないということだ。

 

内容を減らしてでも,学生の学びが駆動するような授業にしていかないと,受け取る内容は少なくなるだろう。

じゃあ,どうしたらいいのか。

 

これはまた考えてみます。

なお,時間切れで,2つのグループの模擬授業は次の時間にやることになりました。

また,報告します。

 

 

 

 

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