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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

日本教科教育学会(シンポジウム)

研究のこと 研究会・集会

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は週末に行われた日本教科教育学会のシンポジウムをきいて,考えたことを書きたいと思います。

シンポジウムのタイトルは,「これからの教科教育」でした。

シンポジストは・・・,これについては本文で書きます。

では,どうぞ。

 

学会のシンポジウムとしてはめずらしく3時間も取ってある。

シンポジストは,安彦忠彦さん,佐藤学さん,森敏昭さんであった。

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カリキュラム,教育学,学習科学の研究者たちだ。

論文集を見ても,シンポジウムの趣旨がどこにも書いていない。

それでも,この3人が教科教育への提言を自分の領域からするということはわかる。

フロアもそれなりに入っている。

若い先生が一番前に行きましょうと意欲的な発言をしたため,前から二番目の真ん中に陣取ることになった。

1列目はシンポジストの控え席。

 

コーディネーターは,「教科教育の考え方を改めなければいけない」といっていたが,これは行政よりの発言だ。

タイトルに「これからの」とついているところが,僕は何となく気にくわない。

「これからの社会にふさわしい教育」という言い方をこのブログでも批判してきたが,そこには一生懸命教育をしている教師や,子どもや保護者は蚊帳の外に置かれている。

そして,今の教育は悪いから変わらなければならないというおきまりの二項対立図式が透けて見える。

 

最初の安彦さんの話は,公教育の歴史の話からはじまり,方法よりも内容を重視すること,大単元,教科内容の厳選,習熟・活用・探求などの話になる。

それなりになるほどと思う。

 

次が佐藤さんの話。

佐藤さんの語りは,大抵1980年代の半ばにアメリカで起こる変化を追って,この30年間で起こったこととしてまとめて語られる。

それが,D.ショーンの「反省的実践家」であり,今回のL.ショーマンの「PCK(pedagogical content knowledge)」である。

佐藤さんの書き方は,いつもまとめて動向を示すが,しかしそれはそれでよくわかる。

 

1991年の「パンドラの箱を開く」論文でも書かれていたが,教科教育学が固有のディシプリンを持っているという言い方への違和感というか,教科教育学は,内容学の応用学問であり,かつ教育学の応用学問であるという認識が示される。

そして,このPCKの話になるのだが,これはよくわかる話だった。

 

PCKは,教科内容に関わる知識というか,「授業と学びを想定して翻案された教科内容の知識」というような意味である。

これはアメリカでは内容を学ばない教科教育というか,教員養成がされていたことに対する批判から出てきたという。

このPCKはどこにあるのか,どうやって学ぶのか。

教材集ではなく,実践記録集が作られているという。

ケース・スタティとなる。

 

ショーマンはそれまでの授業研究には,3つのCが欠けていたという。

それは,content(内容),cognition(認知),context(文脈)の3つであるが,佐藤さんも「パンドラの箱」を開くにおいて,規範的アプローチによる授業研究を批判したが,まさにこの3つのCが欠けていることを指摘していた。

 

僕自身が,実践記録に着目したのもまさにそうなのだ。

『体育科教育』9月号にも書いたが,実践をするためには指導書を読むことではなく,実践記録を読むことが重要なのだ。

実践記録には,教師の思いや願い,子どもの様子などが書かれており,その文脈で教師が何をどう教えようとしたのか,その結果何が起こったのか,そして最初の信念がどう変わったのかが書かれている。

だから,その自分とは違う文脈ではあるにせよ,自分の文脈に当てはめるために、その他人の実践というヴィークルに自分を乗せてみるということなのだ。

 

しかし,佐藤さんはショーマンと同じような立場だといいながらも,実践記録集に学ぶということ(ケース・スタティをすること)だけでは,教師は内容そのものを学ぶことにならないという。

つまり,佐藤さんは教師も、教科教育の研究者にも欠けているのが内容学の知識であるという(あとで質問にいったが,そのときは「哲学がないのが問題」ともいっていた)。

それを学ばずに方法のレベルを中心に,学び方を研究し、学んで実践しようとしているところを難ずる。

内容が学び方を規定するのであって,学び方そのものを云々するものではない。

僕はこの議論そのものに意見表明をしないが,PCKでもいいし,内容学の知識というときの知識,内容に対する佐藤さんの指摘は非常に重要だと思った。

というか,ここがきちんと理解されないから,後でもいうが、シンポジウムで話がかみ合わなくなったと思う。

 

佐藤さんは,研究者の数学の知識と,教師の数学の知識と,学び手である子どもの数学の知識は,知識そのものは同じであっても,その表現様式が違うといった。

これがPCKに対するショーマンとの考え方の違いでもあるという。

それは,デューイやヴィゴツキーブルーナ-の知識の考え方,レオンチェフの知識の考え方を引いてのことだ。

 

僕はここのところを聞いて,頭が回転し始めた。

このことはずっと考えてきたことだからだ。

僕の物語論,ナラティヴ論はまさにそのことを表現している。

それは現象学的な知識,構成主義的な知識であり,知識とは常に私にとっての知識なのだ。

そうでないものは知識とはいわず,情報という。

 

だから,その後の森さんの話を聞いていて,習得と活用のバランスが重要という話になり,また,安彦さんが習熟,活用,探求といったが,それはやはり知識のとらえ方が違うと思ったのだ。

習得と活用というのは,順番的にそう見えるが,それは全く違っていて,活用する時にというか,アウトプットする時に,インプット(習得)のされ方がわかるというように順逆が違うのだ。

 

ここの共通理解が得られなかったから,話は錯綜し,みんなフロアをほったらかしにして,自分の思っていることを話して,終わった。

一番余裕だった佐藤さんは,「みんな哲学が違うからそれはそれでよい」的な発言をした。

いやいや,この部分が重要で,そこを抜きにして,じゃあこれからの教科教育はどうなるの?この知識が重要だというところをフロアとともに理解していかなければ,まったく不毛なシンポジウムではないかと思ってしまった。

 

もちろん,他の人は他の人の知識体系を持っているわけで,このシンポジウムの内容がよく響いた人もいるだろう。

それが,ここでいっている知識の考え方でもある。

誰にとっても同じ価値を持つ知識なんかないのだ。

 

シンポジウムそのものは不毛と思えたが,僕自身の学びが駆動したことは収穫として大きかった。

一人で知り合いもいないので,懇親会に出て,広大の体育の関係者と話をして,お好み焼きを食べて部屋で白河夜船。

 

2日目も期待して学会活動にいそしむことにします。

 

 

 

 

 

 

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