竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門』とナラティヴ・セラピー
こんにちは。石田智巳です。
今日は,竹田青嗣さんの『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー,2009)を手にとってチラッと再読してみたのですが,これがおもしろいと思えたので,何がおもしろいと思ったのかを書き綴ってみたいと思います。
では,どうぞ。
僕は竹田青嗣さんからは多くを学んだ。
僕の好きな3人をあげろというならば(誰も言わないか),竹田青嗣さん,松岡正剛さん,そして,内田樹さんだ。
もちろん,村上春樹さんも好きだ。
ただ,村上さんは作家なので,先に挙げた3人とは違う。
3人に共通しているのは,尋常ではない知識体系を持っている,あるいはそれを使いこなせるということである。
竹田さんからは,当たり前のことだけど,哲学を学んだ。
竹田さんの知識はその著作の膨大さからうかがい知れるが,残念ながら多くの著作を読んだわけではない。
僕の現象学の知識は竹田さんからの知識だ。
だから,現象学の理解も,その批判の理解も,竹田さんのバイアスがかかっている。
僕も学者の端くれだけど,こういう態度は学者的ではないと批判されそう。
しかし,ロラン・バルトを引くまでもなく(このあたりは,内田さんの「他者論」に学ぶところが多し),僕がしゃべったり,書いたりしている言葉は元々他人の言葉なのだ。
その証左に,竹田さんのこの本は,表紙が破れるほど読んだ(よく見ると破れをテープで貼り付けてあります)けど,そして,鉛筆で線を引いたけど,また読むと新たな箇所に線を引いたり,新たな考えが立ち上がってくるのだ。
ということは,過去に読んだ僕は僕であっても,少なくともぴったり一致する訳ではない。
つまり,過去の僕はある意味で他者なのだ。
で,この本を手に取ったものの,やることが目白押しなので,じっくり読んでいる暇はない。
じっくり読むならば,あの本も読まなければいけないし,この本も読まなければいけない。
そこで,ちょっとだけと思って,27ページからパラパラとめくってみて,「おおっ」と思って本論の始まる16ページに戻って,40ページまで読んだ。
ああ,面白かった。
何が書いてあったのかというと,竹田さんの出自と生い立ちと,病いとその症状がよくなるという話。
竹田さんは団塊の世代の1947年生まれで,在日韓国人として,町工場の7番目の末っ子として生まれる。
家は貧しくて,でも竹田さんだけが大学に行かせてもらえることになった。
竹田さんは,学生運動の影響もあって,大学を出ても定職に就かずに,今でいうフリーターをしていたという。
大学を出て1,2年たった頃に,今でいうパニック障害になる。
突然倒れて,救急車で運ばれたこともあるという。
それと,金縛りにもあった。
また,父親を癌で亡くした後,父親が出てくる「悪夢」を見たという。
夢では,父親を死の世界に追い返す経験(父殺し)もした。
20代でこういう3つの精神症になって5,6年続いたという。
そして,それを後に(書いている現在)振り返って,大学時代に味わった二つの挫折に原因を求める。
一つは,外国人籍ということで就職の希望をあきらめたこと。
もう一つは,民族問題。
後者は,「民族か同化か」という問題と向き合う経験のことである。
たまたま,大学で朝鮮系の学生たちのグループ(朝青同)に声をかけられて,話をすることになっていたが,行き違いで話ができなかったという。
朝鮮系のグループは,民族派であり,もし会っていたら民族主義者になっていただろうとのこと。
しかし,会わなかったので,放送研究会に入り,左翼のシンパの人の影響を受けたという。
それで当時の一般的というか,典型的なノンセクトの自称マルクス主義者となったそうだ。
でも,連合赤軍事件や,ソ連の他国への侵攻など,社会主義思想の暗い面も見えてきて,ショックを受けたともいう。
こうして,大学を出ても就職をせずに,「自分のアイデンティティと展望を完全に失った状態でぶらぶら生きて」いた。
そういうときに,文学と出会う。
当時は,政治的な立場で「おまえはどうするのか?」という意思決定を迫られていた。「正解」を求められたということだ。
しかし,文学は,自分で悩む若者の姿が描かれ,その意味で,自分も「あれかこれか」の「正解」を探す必要がない。
先送りにすることができるという。
そして,この時期にフロイトの『夢判断』にはまったという。
はまったのは,精神症を煩っていたからに他ならない。
それで,フロイトに照らして自分の夢の解釈をしようとした。
しかし,最後の最後は,フロイト説と一致せずに,「なんか違うんだよな」というもやもや感が残ったという。
ここで,フロイトに照らして自分を考えてみたときに,「絶対そうだと思える部分」,「全く確信が持てない部分」,「その中間の部分」があることに気づく。
竹田さんのフッサール現象学を読んだことがある人ならわかると思うけど,この上の3つの部分は,フッサール現象学の間主観性の3つに対応しているわけ。
認識問題は,真偽ではなく,確信とその根拠の問題に変えたのがフッサールだった。
フロイトに戻ると,自分の症状のフロイト的な説明に納得できなかった竹田さんは,別の自分なりの確信にたどり着く。
それが,貧しい中で一人大学にやってもらったにもかかわらず,就職せずにいたことに対して,「後ろめたさ」を感じていたことだ。
この「後ろめたさ」を原因とすることで,「自分の中である腑に落ちた感じが起こり,症状も実際によくなっていった」のである。
ここで,竹田さんは,「内的な認識の根拠」の話をする。
つまり,こういう心の問題は,まず,「絶対的な答えが取り出せない」領域だという。
だから,フロイトのいう「エディプス・コンプレックス」なのか,それとも「後ろめたさ」なのかは,実証的に確かめることができない。
基本的に自己了解の問題だということ。
これがフッサール現象学の考えと一致するわけだが,単純にいえば,「事実を知ることと,納得することや了解することはレベルが違う問題」だということである。
これで40ページまで読んだことになる。
現象学が竹田さんに落ちていく前段階の話だったのだが,ここ(僕の話)では現象学はあまり関係がない。
関係がないのではないけど,面白いと思ったのは,これってまさにセルフ・ナラティヴ・セラピーの形をとっていることだ。
ここに僕が書いたことは,二つの話が一つに絡み合うような形で書かれている。
つまり,パニック障害や金縛り,悪夢という精神症という事実があること。
その原因を探すこと。
この場合は,「おそらく○○が原因だろう」という形をとるしかないが。
これが一つの話。
もう一つは,政治的な関わり方のショックと文学的な「決定の先送り」の態度,そして,フロイト的な夢判断へは納得がいく部分といかない部分があること(後に出会う現象学の着想)への洞察の話。
結局,病い(精神症)は,自分で納得できる原因を獲得することで,解消されたのである。
これはまさにナラティヴ・セラピーなのだ。
しかも,「後ろめたさ」が「本当の」「正解」であるわけではないし,正解を実証的に探ることはできないし,そんなことは意味がないともいっている。
その自覚がある中で,納得できたら,病いは解消した。
だから,自分の中の物語に納得のいく因果関係がつけられるということが重要なのであって,正解を探すことが目的なのではない。
人が生きるということは,すべてにおいてこの物語枠組みをどう作るのかが重要なのだ。
それは,ツッパリにも,ヤンチャをしでかす子どもも含めて当てはまるのであるが,自分のある種の秩序を持っていて,それは他人に犯されたくないものなのだ。
だから,エスノメソドロジーが明らかにしてきたように,「大人になれ」という方法で「大人にならそうとすれば」,そういう子どもほど抵抗するだけである。
「物語枠組み」「秩序」を作り替えてやることが重要になるということだ。
結論的にはいつも同じだけど,なかなか面白い思考を巡らせることができました。