体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 10月号№295を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのスポ』10月号№295を読みます。

間が開いてしまいましたが,指導案のことで,さらに考えたことを書きます。

では,どうぞ。

 

先日の丸山さんの論考では,最後に「3ともモデル」について書かれていた。

そのときの記事の写真にも使った図のように,授業の構想の中にトラブルだとか,抜き差しならない状況を作り出すことが求められていた。

かつての教授学構想にも,「ゆさぶり」(斎藤喜博)だとか,「矛盾と葛藤」(吉本均)だとか,価値が揺さぶられるような中身があるのがよいというのがあった。

 

「ゆさぶり」で有名なのは,「出口の授業」である。

国語の教材であるが,森から出てきた子どもがいて,「やっと」「出口に・・・」という文章が出てくる(今手元に資料がないので,テキトーですみません)。

この出口とは森が終わる地点のことか,それともそれよりも森の側の出口が見えたところか,という問いで子どもたちが議論をする。

なんとか子どもたちなりに答えを出したところで,斎藤喜博さんは「そんなところではない」といって「ゆさぶり」をかけるという話。

 

この実践記録は,いろいろな波紋を呼び,誌上論争になったりした。

かつては,誌上論争はちらほらあったが,人格批判のようなこともあったりした。

だから,実践記録を書いても発表しにくくなったということもあったのかもしれない。

 

大学の先生がいろいろ「ああだ」「こうだ」というなかで,颯爽と?登場したのが,向山洋一さんだった。

教育技術の法則化運動(今のTOSS)を起こした人で,「跳び箱は誰にでも跳ばせられる」でも有名な人だ。

向山さんは,斎藤喜博さんの実践記録を元に授業をする。

そして,斎藤喜博さんのいっていることのおかしさを,子どもの反応から引き出す。

それをレポートにして誌上に載せたのだ。

机上の空論になりがちな誌上を黙らせた。

 

あれっ,話がずれた。

指導案の話だった。

実は,「ゆさぶり」をかける発問をするのは,たぶん,体育同志会の人にはなれていないのではないか。

「発問」と「指示」で授業を進めていくのは,TOSSのやり方だ(僕は,法則化運動の方がなじみがあるが)。

授業中に,要領の得ない言葉を並べることを戒め,誰でもわかるような指示,発問の工夫を求めるのだ。

それはそれで役に立つし,僕も指導案の指導では,説明の言葉も書かせてみる。

 

またもや,話がずれた。

何が言いたいのかというと,今回の『たのスポ』に指導案を載せたメンバーは,体育同志会の中でも優れた実践家だと思う。

でも,「3ともモデル」とかいわれても,体育授業では,基本的に技術指導の「わかる,できる」部分が中心にならざるを得ない。

だから,一般的な指導案になるということだ。

 

つまり,丸山さんの言うような,子どもの生活課題や発達課題を盛り込むとか,トラブルを誘う指導案というのは難しい。

今回は載っていないが,滋賀の漆山晶博さんの,つなぐバスケか突破のバスケかというのは,それに近いのかもしれない。

 

鹿児島の村末勇介さんの「”性と生”の学習指導案」だけが,4年生という思春期の子どもの実態が書かれ,こういう子どもたちだからこそ,性教育が必要だというシナリオが書けている。

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それでも,指導案は一般的な授業の流れになっているが。

 

指導案の日案に書くこともだが,村末さんのように,その前に書く「教材観,子ども観,指導観」の書き方と単元構想,その中でのヤマとかキモになる発問だとかを書いてもらった方がいいのではないかと思ったりする。

 

というのも,やっぱり指導案は一般的な中身しかかけないものだ。

先日も授業で「指導案」の話をしながら,「場面指導」の話をした。

 

「小学校3年生の授業中に,ある子どもが外に出て行きました。あなたはどうしますか?」という場面指導の問いが出されたとする。

おそらく,求められる一般的な回答は,「クラスの子どもに課題を与えたうえで,その子どもを探しに行く」というものだろう。

 

でも,その子がどんな子なのかは担任だったらわかっている。

だから,危ないと思えば,何をおいてでも飛び出していくだろう。

僕は和歌山の山野さんの授業を見に行ったときに,ある女の子が怒ってひとしきり暴れた後,教室を出て行ったところに遭遇した。

山野さんは追っかけなかった。

 

後で僕にこう言った。

「あの子は最近,落ち着いてきて,頭を冷やせば自分で帰ってくるようになった」。

だから追いかけるとクールダウンさせられなくなるから放っておくという。

あえて,教師が行かなくても,仲のよい子どもに行かせることだってあるかもしれない。

これがプロ教師(こういう言い方はよくない?)の判断だ。

 

要するに,「文脈や状況」で判断をしているのであって,あらかじめ決めておくことではない。

もちろん,一般的な解といわれるものを知ることがいけないわけではない。

 

それで,ジレンマなのは,授業を創るということは,大学でやる模擬授業ではものすごく限界があるということであり,大学で目指すことと,教師になってから目指すことは違うということである。

大学では,教える内容を明確にして,それを具体的な活動の場に落とし込んで,指示や発問を含めた指導案を書いてみること。

そして,その通りにやってみてできるのかどうかを問う。

 

子どものつぶやきを元に授業を変化させたり,雰囲気がよくないから,予定を中止して全然違う内容をやり始めるなんてことを求めていない。

 

毎年,授業研究をやりながら,毎年自己の抱える矛盾に悩んでいるのです。

なかなか難しいと思います。

 

 

 

 

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