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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

昔話「末吉小学校」を読む7

体育・スポーツ 実践記録 運動文化論

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,菊池淨先生の「昔話『末吉小学校』」を読みます。

7回目になるのですが,全然進みませんね。

でも,僕は平成に入ってから教える文化がなくなってきたことを考える時に,この話は「教えることの復権」として,また戦後民主主義のよきあり方を確認する意味として,読んで覚えておく必要があるように思います。

 

ということで,続きです。

では,どうぞ。

 

写真は,黄色い彼岸花

10月5日に撮影したのだが,そこら辺の赤い花はほぼなくなった。

これは鉢植えだけど。

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前回は,体育の研究が他の教科への研究につながるというような話だったが,途中で校長論のような話になってしまった。

そのため,今日は教科の話にしたいところだが,学校づくり的な話になる。

前回も書いたが,末吉小学校では,春休みに教師が合宿をするという。

ここで,年間計画,校務分掌などを決める。

 

使う教材も自分で決めるが,それを全体討議にかけるという。

誰かが「よいこと」を始めると,そういう場合は討議にかけないのだが,でもみんなのものになっていくという。

その「よいこと」も,外の研究会で学んできたことだったりする。

 

僕はこういうのが好きで,何でもそうだが,自分が思いつくことっていうのは結構脆弱で,それに比べると,ある問題意識には必ず先行する問いと答えの仮説があり,その最新の仮説をあたる方がうまくいくのだ。

先行研究をおさえない研究も,先行する実践をおさえない授業も,やはり脆弱なのだろう。

教師は教えるプロであると同時に,子どもの学びを作るプロであるが,それは先行する実践をどれだけ知っているかに支えられる。

だから集団で学ぶ必要があるのだ。

 

それと教師集団のなかで誰かがよいことを始めるということは,その人は学んできたということであるので,「ぼやぼやできない」のである。

自分も発信者にならなければと焦り,そのためには学んでくることが必要になる。

でも,それは人事考課だとか,給料に反映されるからではない。

いい学校にしたいからであろう。

「よいと思えばやってみる。いつかは話題になる。そして皆のものになる。だから皆というフィルターがあるから,何でもできました」。

 

根本教頭は,新しいことをやりたい場合はまず自前でやれといったそうだ。

新しいことを思いつくとお金がかかる。

しかし,やり遂げれば幸せになれるから,金には換えられない充足感を味わえるという。

これはずっと後に出てくるのだが,教師は職人の要素もあるから,コンパスやナイフ,はさみなどの道具はこだわったものを持っていたという。

教師の矜持だね。

 

長野の小山吉明さんも,自前で道具をそろえるといっていた。

お金の出所はどうかはわからないが,ホームセンターへ出かけていっては,教具を作ってしまうという。

びっくりするのは,体育館のバスケットボールコートがグループの数だけないから,自分で作ったというところだ。

器用仕事というのか,体育倉庫にはそういう自前の教具がたくさんおいてあるという。

やはり職人の部分もあるのだろうね。

 

『たのしい体育・スポーツ』の前に『運動文化』という機関誌があったが,そこにも自前の教具などを紹介する頁があった(ような気がする)。

 

ということで今日も少ししか進みませんでした。

民主的な学校づくりの話はまた続けます。

 

追伸

菊池先生よりまたメールで連絡をいただきました。

内容がおもしろいので,今度そのまま掲載して紹介しようと思います。

 

 

 

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