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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

昔話「末吉小学校」を読む6 菊池先生からメールをいただきました。

体育・スポーツ 実践記録

こんにちは。石田智巳です。

 

9月にほとんどブログの更新をしなかったわけですが,となると「昔話『末吉小学校』」も5でストップしてしまっていました。

そうしたところ,9月27日に菊池淨先生からメールをいただきました。

昔話の補足ということですが,途中で止めてしまったから,これは叱咤激励だと受け止めました。

そこで,という単純な理由ではないのですが,この末吉小学校の話を手がかりに,記事を書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

写真は,奈良の十津川村の滝

ちょっと行ってみようと軽い気持ちで行ったものの,山の中に入ること11キロもかかってしまった。が,行ってよかった。

f:id:tomomiishida:20150928172713j:plain

 

末吉小学校の話は,これまで5つ書いてきたが,簡単に振り返ると次のような話である。

菊池淨先生が,八丈島の末吉小学校に赴任して,根本忠紀教頭先生や永田先生という方と出会い,勉強をはじめることに。

根本先生が丹下保夫さん(体育同志会の創始者)と知り合いだったということもあって,体育の勉強をはじめる。

同時に,いろいろな民教連の団体に学びにいく。

 

そして,科教協に所属する奥山英虎先生を学校にひっぱてきて,子どものわかり方の研究を始める。

体育同志会では有名なサッカーの心電図は,このわかり方を研究する中で出てくる。

武谷三男の認識の三段階論やレーニンの認識の三段階説(感性-悟性-理性)などを勉強する。

菊池先生は,この三段階説を,子どもの思い方,感じ方(感性的認識)と教材の持つ論理性(理性的認識)というようにとらえ,この2つの論理をどのようにして出会わせるのかを研究していたようだ。

 

これは,今風にいえば,ヴィゴツキーの生活的概念と科学的概念の関係ともいえる。

内言と外言でもいい。

子どもの持っている論理体系に,どう科学的な論理を入れていくのか。

これが,わかることの解明である。

さらりと書いているけど,これは非常に重要なのだ。

 

で,ここまでがこれまでに書いたこと。

とりあえず,いただいた「昔話『末吉小学校』」にそって続きを書きたい。

次は,「5 いろいろな教科へ」である。

つまり,サッカーの技術指導の系統性の考え方は,認識論の学習とともに,他教科に広がっていくのである。

 

その頃から,春休みには教師が合宿をするようになっていく。

その合宿で,担任の決定,校務分掌,年間計画など学校に関することを決めるという。

この辺はすごいんだけど,持ちたい学年があれば,自分で年間計画をつくって提出して,みんなで決めるという。

さらに,校務分掌は名目だけ残して全廃。

会合は,月1回の職員会議と研究会のみ!!!

 

また脱線するが,校務分掌が教師の多忙化の原因となっていることを指摘していたのは,佐藤学さんだった。

先日,佐藤さんの本『専門家として教師を育てる』(岩波書店,2015)を読んでいたら,このこととそして,学校の改革と関わって,面白いことが書かれていた。

 

「日本の校長は『学校の管理』は行っていても,その専門性と教育責任の中心である教師の専門性の開発,教室における授業と学びの観察,授業の改善,子どもの学びの改善に於いて,世界最低レベルの指導性しか発揮していない」(128頁)。

 

これがおもしろいというわけではないのだが,日本の校長は,行政職の末端として位置づけられているということだ。

だから,学校の管理,なかでも,上からいわれたとおりにやっているかどうかの管理が中心になるということだろう。

 

根本教頭先生は,前にも書いたように,自分のやりたいことを実験的にやるために,菊池先生の授業を取り上げていた(根本先生がやっていた)ようだ。

ここには,校長先生の話が出てこないのでよくわからなかったが,実は,菊池先生自身が校長先生になって退職されたという。

この話はやや悲しい話ではあるが,菊池先生は,校長になっても授業をしていたという。

体育の授業を体育館でピアノを弾きながら,リズムをしたりマット運動をしていたという。

しかし,組合からの苦情,体育同志会からも変な目で見られたという。

 

以前,和歌山の白浜集会に出かけたときに,笠原さんの話を書いた(白浜集会の話 2日目 笠原悌二郎さんの話 )。

笠原さんは,自分がやりたいことをやるためには,校長になるのが一番だと思って,自分が校長になっていろいろ改革を行ったという。

校長と組合が単純に対立する時代でもない,ということを自ら示そうとしたのかもしれない。

 

でも,おそらく笠原さんは授業はしていないだろう。

当時の高校は,生徒が多いし,そもそも高校は授業の善し悪しってあまり問題にならないだろうし。

僕は,校長先生が授業をするということは,いいことだと思う。

近くの小学校の先生も,授業をやっている(というか,見せてもらえる)。

 

ただし,佐藤学さんは,研究授業などの研修を,「評価と助言」からの脱却の必要性をいう。

これはよくわかる。

どこかに正解があって,それに近づくという考え方ではなく,どんな授業からでも学べるという姿勢であろう。

だから,校長先生だろうが,若い先生だろうが,「見せつける」だとか,「教えてやる」とかではなく,みんながそこから学ぶという仕組みにしさえすればいいのだ。

 

脱線しすぎた。

けど,今日はこれで終わります。

なるべく長い文章にしないようにします。

 

 

 

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