昔話「末吉小学校」を読む4
こんにちは。石田智巳です。
「末吉小学校」に関しては,3まで書いたところで,ランニング,研究会,キャンプ,学会などで頓挫してしまいました。
なかなか続けて書くのは難しいということですね。
一気に書いてしまえばいいのですが,そうもいかない台所事情もあります。
今日は,技術の系統をめぐっての話です。
では,どうぞ。
写真は,名古屋で研究会に参加した後に,名古屋駅で食べた味噌きしめんの天ぷら入り。天むすセット。
赤味噌とエビで,名古屋人らしい(本文とは全く関係なし)。
2を書いたときに,堀江さんが「たのスポ」7.8月合併号に書かれていたこと,そして認識論的基礎について勉強されていたことを書いた。
菊池先生も,1を書いたときに補足をしてくださったので,そのことも載せた。
今回は,実はそのことが書かれている。
つまり,感性的認識-悟性的認識-理性的認識,あるいは,現象論的認識-実態論的認識-本質論的認識などという認識の段階説だ。
特に後者の武谷三男さんの三段階については,奥山英虎先生が持ち込んだ理論だという。
この奥山先生というのは,科教協に所属して,理論家であった。
「根本先生から,あの人を引っこ抜いてこいと命じられ,私が口説いて末吉小学校に転勤してもらいました」。
菊池先生は,弁証法で知られる井尻庄二さんに学んで,感性-悟性-理性について考えたそうだ。
哲学は,感性-悟性-理性。
科学は,感性-悟性-理性-悟性。
音・美・体は,感性-悟性-理性-悟性-感性。
このように辿るという仮説を立てる。
そして,一巡りして,感性に戻ってきたときには,一段上の認識にあがるという。
こういう仮説は,仮説として立てるだけなら「ふ~ん」といったところだが,そうではない。
この理論が指導に生かされる。
頑張れとか,勢いが足りないとか,足が曲がっているという指導では,最初の感性の段階から出られない。
子どもの認識を揺さぶる指導とは何か?どういう指導のことをいうのか?
菊池先生はかつて,山梨の中学校に授業を見に行ったときのことを書いている。
ハードルの授業で,指導の中心は「初速の大切さ」であった。
「何度,跳んでも跳べなくて,足を引っかけ,痛い痛いと戻る子がいました。先生は初速がたりないと助言していました。
私がその子に声をかけました。
『ブランコにのって戻る時,体がふわっとするでしょう。経験ある?』
あるという。
『跳ぶ時,ふわっと思って跳んでごらん』
その子は腰の上下動に若干問題はあるものの難なく走り抜けて,ビックリしている風でした。」
「初速が大事というのは,ハードルが持つ論理的構造なのだと思います。
認識の段階では悟性的なのでしょう。
いわれた子どもは感性的なところでつかめなかったのでは無いか。
個人の感性に戻っていない。
私の言葉で,気持ちにハードルを跳ぶという行為を感性的につかんだのではないかと思いました。」
これはわかりやすい。
実は僕も,『たのスポ』9月号(もうすぐ出ます)に,言葉のことを書いているのだが,そこでは,オノマトペ(擬音語,擬態語)と理屈の言葉のような分け方をしている。
しかし,人間の認識の段階ととらえると非常にわかりやすい。
音楽の授業でも,カリンカのなかに「ヘイ!」というところがある。
この「ヘイ!」がなかなか出ない。
斎藤喜博さんがよくやったという介入授業のことだと思うが,音楽教育の会で,ある人が指名されたら,次のようにいってうまくいったという。
「皆のヘイは砲丸投げなんだよね。バレーのトスを上げてくれない」。
そしたら,見事な「ヘイ!」になった。
音楽では,群馬の「リズム構成」の実践報告について2度ほど聞いたことがあるが,あれもまさにイメージ(感性)を大切にする。
揃うということもだが,「力強く押せ」というのではなく,「固いコンクリの扉を押すように」ということを大切にする。
これは,まさに斎藤喜博さん的なのだが,その意味で,小林篤さんも,故阪田尚彦さんも,体育授業における言葉がけについて研究をしておられた。
こうやってつながっていくのが面白い。
次は,ついに堀江邦昭さんが登場します。
今日はこの辺で。